< HOME

規約と信仰告白
「主張」
全国連合長老会ニュース
加盟教会一覧
出版書籍


「主張」

※機関誌「宣教」(2008年7月号)「主張」欄より


 聖餐の乱れについて


 いわゆる「未受洗者陪餐」の問題は、昨年一〇月、教団常議員会による「教師退任勧告」によって、ようやく、公の場で取り上げられる議論となった。以前から、そのような主張や噂は多く聞かれたが、個教会の実践に関わることであるだけに、その実態はあまり外には見えてこなかった。そして、表立って語られることのないままに、教会の信仰の根幹を蝕み、福音を空洞化させる恐るべき病は、ひそかに進行してきたのである。
 「オープン」「フリー」という言い方で誤魔化されないように、最近は「違法聖餐」と呼ばれることも多い。形式的に言えば、日本基督教団がどのような教会であるかを自己規定しているのが信仰告白と教憲教規であり、さまざまな教派的な背景を持つ教会が、合同教会として一つの形を造り上げていくための基礎また要になるものである。この点で一致していればこそ、多様な広がりをもつことも可能になる。戦時中はともかく、戦後の教団は、決して、強制的に一致させられているわけではない。どうしても、この一致の要を共有できないのであれば、新しい教団を造ればよいのである。それを妨げるものは地上には存在しない。
 しかし、「聖餐の乱れ」は、ただ形式的な「違反」「違法」ということでは片付けられない深刻な信仰的問題をはらんでいる。「聖餐」が教会にとって、また信仰者にとってどのような意味をもつのかということについての信仰と理解が崩れているからである。個教会の実践において、「聖餐」の内実が失われているからこそ、「愛餐」との境が曖昧になり、さらには「洗礼」の恵みもないがしろにされてしまうのだと思う。
 確かに、求道者と呼ばれた時代を思い起こせば、一緒に礼拝に出て説教を聴いているのに、聖餐にはあずかれないことで、寂しさを覚えたのは事実である。しかし、だからこそ、洗礼を受けて、初めの聖餐にあずかった感激は忘れがたい。「未受洗者陪餐」は、求道者からこの恵みの体験の機会を奪うものであり、これに与する教師たち自身が、もはや聖餐の秘義と恵みの内実に対する畏れを失っているのではないかと思う。
 もちろん、「未受洗者陪餐」に踏み切る教会には、それぞれの抱えている課題や事情があるに違いない。しかし中には、「聖餐」という呼び方で「聖」と「俗」を分けようとする考え方が差別を生み出す、という主張まである。本来、「聖」とは、ただ神にのみ帰せられる言葉であり、神とのつながりの中で、神によって用いられるものに「聖」の名が付される。「聖書」「聖餐」「聖なる教会」、いずれもそうである。「聖餐」を解体することは、聖書の権威を否定し、教会を解体しようとする動きと歩みを共にしているのだと思う。神とのつながりを失った教会は、世俗社会の中に埋没して、もはや「地の塩」でも「世の光」でもなくなってしまうであろう。
 一年ほど前から、「未受洗者陪餐」を実践する教会で役員を務めたこともある人が、鎌倉雪ノ下教会の礼拝に続けて出席しておられる。話を聞いてみると、聖餐が「開かれている」かどうかということに、あまりこだわりはないという。受ける側がきちんと信仰をもって受ければよいという考えらしい。むしろ問題は、説教だというのである。社会問題についての評論ばかり聞かされて、少しも福音が聞こえない。ついに耐えられなくなって、福音を求める旅に出たのだという。確かに、福音主義教会の標識は、「説教と聖礼典」である。聖餐の乱れは、福音の説教の空洞化から来ていると言っても過言ではないと思う。
 礼拝の説教において、十字架の罪の赦しの福音が説かれず、それ故に、真の悔い改めと共に、復活の主の現臨にあずかることもない。そこに病の根があるのだと思う。社会問題にのみ目を向けたり、あるがままをよしとするだけの説教が、福音を空洞化させ、洗礼を単なる個人の決断、聖餐を人間的な交わりのしるしにおとしめてしまう。そのようにして、人間中心の「教会」から、罪人を義人として新しく生まれさせる聖霊の働きが閉め出されているのである。聖餐の乱れは、「主の教会」としての命を蝕む深刻な病の現れである。この点での妥協は、教会にとって、まさに、命取りとなるであろう。


鎌倉雪ノ下教会牧師 東野 尚志





▲このページのトップへ



日本基督教団 全国連合長老会 All Rights Reserved.