< HOME

規約と信仰告白
「主張」
全国連合長老会ニュース
加盟教会一覧
出版書籍


「主張」

※機関誌「宣教」(2008年8月号)「主張」欄より


 献身について


 「献身」ということに思いを巡らす中で、自らの献身について振り返ってみました。
 わたしは牧師の家庭に生まれ育ちました。父の遣わされた教会は、当時、大きな社会問題の渦中にあり、教会の中も大変混乱していたようです。しかし、そのことを全く知らずにわたしは教会に通い続け、やがて高校生の時に洗礼を受けました。時々、ヘルメットをかぶった学生たちや、大声を出す大人たちが教会に出入りしているところを見ましたが、そんなに深刻なこととは受け止めておりませんでした。幸いにも受洗まではごく自然な流れであったように思います。
 しかし、受洗を機にわたしは自分の生まれ育った教会の抱えている過酷な歴史を牧師である父から伝え聞くことになります。それは、そのような只中にありながらも何も知らずにある意味で生温く生きてきたわたしに、衝撃を与えました。わたしの中には、怒りや憎しみと共に自分の教会を守らなくていけないという強い感情が湧いてきました。そして言うなれば、その時の感情の高ぶりがわたしを献身へと駆り立てていったのであります。
 ですから、わたしの献身のきっかけは、純粋に神さまに仕えたいとか、福音を宣べ伝えたいというものではなく、今思えば、およそ献身などということを胸を張って言うことのできないような、怒りと憎しみの渦巻いた極めて人間的な思いであったように思います。そしてその勢いのままに気がついたら神学校で学ぶことになったのです。よく当時の教授会がわたしの入学を許可したものだと、改めて不思議に思います。
 しかし、神学校での学び、そして出席教会での神学生としての訓練の中で、わたしの人間的な感情は少しずつほぐれていったように思います。主の日毎の礼拝で与えられる御言葉、また多くの信仰者たちとの出会いが、わたしを真に「献身化」していったのだと思います。そしてこの献身の旅は牧師になった今日もなお続くものであります。それはあくまでも「献身化」であり、現在進行形であります。
 一般的に、献身とは牧師を志し、神学校に入ることとして受け止められますが、それは決して、神学校に入った時点で達成されるというものではありません。むしろそこから本当の献身の旅が始まるのではないでしょうか。
 更に言えば、洗礼を受けてキリスト者になった時に、すでに個々の存在において献身の旅が始まったと理解することもできるのではないかと思います。わたしたちは洗礼を受けてキリストに結ばれ、神さまのものとして回復されます。神さまと一つにされ、神さまの御心を生きるように変えられるのです。パウロがロマ書で「生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです」(一四・八)と告白するのは、まさしく神さまのものとして新しくされ、御心を生きるように身を献げた信仰者の真実なる告白なのであります。
 しかし、そのように考えますと、わたしたちは如何に献身から遠い存在であるかということが分かります。神さまのものとして、神さまの御心を生きることよりも、自分の願いや感情、自己実現のために心を割いている現実があるからであります。
 でもだからこそ、そのようなわたしたちのために主があの十字架でご自身を献げてくださったことを感謝せずにはおれません。わたしたちの献身は、主の献身にこそ支えられているのです。この主の献身の中に自分の存在を入れ込むことによって、ますます罪の思いは削がれていき、真の献身へと高められていきます。わたしたちの日々の歩みはそのような主への献身の歩みなのです。
 わたしの思いの中に、あの神学校に行くと決心した時の感情が全くないと言えばそれは嘘になります。まだまだ献身の途上にあることは明らかですが、しかし、主はそのようなわたしをも捕らえ、そしてこの素晴らしい献身の旅に出させてくださいました。一進一退を繰り返すような歩みでありますが、真の献身者である主がこの旅に同伴してくださることを喜びとして、これからも許される限り、日々、真の献身を目指して歩んでまいりたいと願っております。


錦ヶ丘教会牧師 川島 直道





▲このページのトップへ



日本基督教団 全国連合長老会 All Rights Reserved.