一.牧師であること
M.ルターは聖職者に特有の神の召命を一般の職業にも拡大することによって、健全な職業倫理を確立しようとしたと言われる。日本ではキリスト者の数こそ少ないが、自分の職業を神からの召命として捉え、その業を通して真実に神に仕え、日本社会の地の塩として重要な働きをしている多くのキリスト者がいる。頼もしい限りである。
では肝心の牧師の場合はどうだろう。現在神学校入学志願者数は極端な減少傾向にある。のどから手が出るほど牧師志願者は欲しいが、神からの召命を曖昧にすることは絶対にできない。どんな職業であろうと神からの召命を厳しく問うことがなければ、良い働きはできないからである。
今から35年前(1973年)に出版された本で、すでに牧師であることが安易な道に成り下がっていると指摘されていた。「牧師たるの道は緊張を失い、低下の一途をたどり、馴れ合いがはじまります。そしてそこから、教会全体の規律はゆるみはじめるのです。したがって、教会のゆるみを食いとめるには、牧師の姿勢を矯正することからはじめなければなりません」(『カルヴァンと共に』渡辺信夫、第二話「牧師であること」)。教会のゆるみは牧師の責任である。牧師の姿勢を矯正するとは、牧師がいかに仕事をするか以前に、自分が神からの召命に立っているかどうかを己に厳しく問え、ということである。
二.神の言葉に仕える者
牧師の任務の第一は神の言葉に、説教と聖礼典を通して仕えることである。それによってしか信仰をもたらすことができないからである。「信仰は聞くことにより、しかもキリストの言葉を聞くことによって始まる」(ロマ10・12)。御言葉を与え信者を霊的に養い、神に忠実な信仰深い神の民を形成することが牧師の普遍的な任務である。それがなされなければ、牧師は塩の味を失って、踏みつけられるだけである。それを防ぐには、人間の怠惰と馴れ合いを改革していかねばらなない。
事は毎週の礼拝に関わる。委員会やその他の事で、牧師たちの御言葉を巡る学びが手薄になっている。これは何よりも牧師職の危機である。その結果、教会は御言葉以外のもので養われるようになってしまう。長老会は特にこの点を自覚しないと、教会全体を霊的衰弱のまま放置することになる。教会が生きるか死ぬかは長老会の責任である。その中心に牧師が立たされ、御言葉の奉仕者として立てられているのである(『長老教会の手引き』第四章教職・長老・執事)。
三.御言葉の同労者
わたしたちの属する日本基督教団は合同教会という歴史的特質をもっているために、教会としての幅があり、単一ではない。その歴史的特質を生かしつつ、公同教会形成に励んでいくのが、より現実的な道である。そう判断して歩んできたのが全国連合長老会である。しかし当然その歩みも常に、いかに御言葉に仕えていくかという原則に照らして絶えず改革されていかねばならない。
その点で、カルヴァンの手によるジュネーブ教会規則の牧師の項は今も有効な指針である。その第一は牧師の教えが聖書に適い、健全なものであること。第二は牧師の生活によって神の言葉の名誉が傷つけられることのないようにしなければならない点である。前者については、週一度牧師全員が集まる日が定められ、「聖書の会議」がもたれた。正当の理由がない限りこれを免れることは許されなかった。後者には異端、背任、偽証、姦淫、窃盗、飲酒癖などもあげられており、神の栄光を汚さないための内的な自己規制が求められている(『歴史と伝承』芳賀力「教職とは何か」(3)牧師の堕落。参照)。
牧師会の形成と歩みは、各地域連合長老会が第一に励んでいくべき重要な課題である。その牧師会は、ひとりの頭、唯一最高の監督イエス・キリストのもとに集められ、いかなる教会も他の教会に対するいかなる支配や優越をも排し、互いの教職を敬い、一致と兄弟姉妹の愛を保ち(フランス信仰告白25参照)、御言葉の研鑽のために立てられていかねばならない。
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