既に用いている教会もあると思うが、この二月『続 明解カテキズム』が出版された。これは『明解カテキズム』に続くものである。問答の解説者は関川泰寛牧師であるが、一人による労作ではない。他の日曜学校委員たちの努力にもよる<教会が生み出した>ものと言えよう。従って、教会で用いるのに最適な書物である。強調したいのは、誰もが聖書、教理、伝統に生きる歴史の教会を形成することを願っているが、その願いを適えてくれることは保証済みである。「私たち日曜学校委員会のメンバー七人は、今回のカテキズム作成に当たり、二年間の歳月をかけ合宿を重ねて、問答の言葉を練り、聖書箇所の選定を行いました」(「宣教」六六六号)と、苦労の一端が記されている。
日曜学校の委員のメンバーによるカテキズム作成によって、既に出版された『明解カテキズム』は使徒信条に基づいて編集されたが、それに続く『続 明解カテキズム』は、十戒と主の祈りを取り上げている。このことによって「三要文」がそろったことになる。しかも、十戒、主の祈りに入る前に、「説教と聖礼典」を取り上げている。このことは大変興味深く、編集者の教会形成への積極的意図を感じる。見えない神の言葉としての説教、見える神の言葉としての聖礼典、しかも当然のことであるが、洗礼から聖餐への秩序ある健やかな教会形成を目指している。このことを日曜学校(教会学校)の時から身に着けることを願ってのことである。
全体は、第1章 説教、第2章聖礼典、第3章 十戒、第4章 主の祈り、とまとめられている。問と答えとを記し、その問と答えには、関連する二つないし三つの小問が付けられ、その問と答え、小問に関連する聖句が正典六六巻から吟味に吟味をし、いくつも掲げられている。しかも、単に聖書箇所が指示されているだけではなく、実際の聖書箇所が自分の目で読めるように工夫されている。執筆者が、問いと答え、小問を念頭に置き、選ばれた聖書の言葉に基づいて釈義的にも丁寧に、まさに明解に解き明かしていくのである。「カテキズムの学習者は、聖句を繰り返し読みつつ、カテキズムのことばを味わい理解することができるようになります。ちょうど、深く豊かな森の中に一本の小径がつけられ、その周辺が照らし出されることによって、旅人が安心して聖書と言う森の中に分け入っていけるかのようです」と、興味を誘うことばを記している。
カテキズムは教会の信仰である。「カテキズムは個人の信仰ではなく、教会に伝えられた信仰を、分かりやすく、学びやすく、一定の形式と体系を伴って教示することによって、キリストの救いの秘義への信仰を伝え、神の救いの約束とその歴史の中にわたしたちが招かれていることを覚醒させるという目的を持っています。・・・教会の信仰を伝達する者も、それを受け取る者も、神の救いの秘義と啓示の恵みに共に聴くと言う経験なる姿勢が貫かれることが大切です」と記し、「この姿勢の中で、教える者も学習者も、神を中心とした交わりに入れます。この交わりの円は、各個教会の交わりを超えた、信仰を同じくする諸教会のコイノニアとの同心円なのです」とも記している。
日曜学校に課せられた使命は、正しい伝統に基づいた喜びの福音を若い世代に伝えることであり、聖礼典が取り上げられていることは、信仰の初歩から洗礼へ、そして聖餐にあずかるまでの大きな流れと計画の中で信仰育成をはかろうとするものである。
宗教改革は「聖書のみ」の原理を掲げて、神の言葉を回復した。しかし、教会の教理や伝統を顧みずに自分流に聖書を理解し解釈することは許されない。教会の教理と伝統を抜きに解釈されたキリスト教信仰は、キリスト信仰とは言えない。「信仰告白」は「聖書」によって規定される規範であり、「聖書」は「信仰告白」を規定する規範である、と言われる通り、聖書と信仰告白・信条の関係は重要である。このことは教会の教理と伝統を大切にすることを意味している。
『明解カテキズム』、『続 明解カテキズム』は礼拝を整え、教会の秩序、神の主権を確立し、信仰教育を担うものとなるに違いない。
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