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「主張」

※機関誌「宣教」(2009年11月号)「主張」欄より


 主の血潮に感謝して献げる


 挑戦的な言葉から始めることをおゆるしいただきたいと思います。牧師・長老・執事の皆さん、献金の指導を聖書に言葉に基づいて教会でなさっていますか。教会員の皆さん、献金の指導を聖書の言葉に基づいて受けたことがありますか。こういう言葉から始めざるを得ないほどに、教会の中で献金について指導することを怠り、献金について指導を受けることも嫌がってきたのではないでしょうか。教会全体の修養会や地域連合長老会の修養会などで礼拝を成立させている一要素である献金について学びがなされてきたでしょうか。「教会の中で牧師がお金のことを口にするな。経済的に厳しい時代だから」と言って口を閉じてしまったのでしょうか。それなら高度成長期にきちんと聖書から献金指導がなされたのか。教えなくても教えられなくても「常識」なのでしょうか。いったい、聖書のどこに教会の中でお金のことを口にしてはいけないと記されているのですか?
 献げることを巡って人間は過ちを犯してきたのです。創世記第四章三〜五節「時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった」。この出来事をきっかけに人類最初の殺人が起こったのです。兄カインが弟アベルを殺す。ヘブライ人への手紙はこう解釈しています、第一一章四節「信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって、正しい者であると証明されました。神が彼の献げ物を認められたからです。アベルは死にましたが、信仰によってまだ語っています」と。アベルは信仰によって優れた供え物を神さまに献げました。使徒言行録第五章一〜一一節が記録している出来事もまた献金についての過ちでした。アナニアとサフィラ夫婦は神さまの審きを受けて即死したのでした。だから、きちんと教えられる必要があるのです。
 マラキ書第三章八〜一一節「人は神を偽りうるか。あなたたちはわたしを偽っていながら/どのようにあなたを偽っていますか、と言う。それは、十分の一の献げ物と/献納物においてである。あなたたちは、甚だしく呪われる。あなたたちは民全体で、わたしを偽っている。十分の一の献げ物をすべて倉に運び/わたしの家に食物があるようにせよ。これによって、わたしを試してみよと/万軍の主は言われる。必ず、わたしはあなたたちのために/天の窓を開き/祝福を限りなく注ぐであろう。また、わたしはあなたたちのために/食い荒らすいなごを滅ぼして/あなたたちの土地の作物が荒らされず/畑のぶどうが不作とならぬようにすると/万軍の主は言われる」。人間は神のものを盗んでいる、どこで盗んでいるのか、十分の一を献げないことにおいて神のものを盗んでいる、甚だしく呪われる。痛烈な言葉です。「きちんと献げてごらん。わたしが溢れるほどに祝福を与えるから。嘘だと思うのなら、試したらよい」とさえ神さまは語られるのです。
 コリントの信徒への手紙U第九章六〜七節「惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです」。献金の額は神と自分との関係から信仰によって決めます。しかし、レビ記第二三章一〇節「わたしが与える土地に入って穀物を収穫したならば、あなたたちは初穂を祭司のもとに携えなさい」、申命記第一四章二三節「あなたは、毎年、畑に種を蒔いて得る収穫物の中から、必ず十分の一を取り分けねばならない」とあり、自分に与えられている収入の残りを献げるのではなく、神さまのために最初から別にとっておくのです。
 主イエス・キリストがいのちをかけて、私どもを罪と罪の審きと死から贖ってくださったのですから、私どもは感謝して献げることができる筈です。当然ですが、新札で献げることは言うまでもありません。結婚式の祝儀には新札を用いているのですから(弊紙第六四七〜六五〇号「温故知“真”」欄を是非ご覧ください)。


小田原十字町教会 馬場康夫





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