「宣教」誌は、幅広い読者を得ています。それは、「宣教」が聖書・教理・歴史を主な柱として堅実な信仰を証しし、私たちの教会の同質の信仰を示してきたことが信頼されているからであろうと思います。本号を見て分かりますように、説教をトップに掲げ、教理(信仰告白)、歴史、聖書を中心に、信仰的・神学的エッセイ、報告、ニュースを主な内容としています。
基本的には、こうした内容と伝統を守りつつ、福音を正しく宣べ伝える教会に永く仕えることが、「宣教」の中心的な使命でありつづけるでしょう。
ただ、そうした使命を、今日において、このような「媒体」を通し、それを用いて果たしていくことの意義を意識しなければならないと思います。「宣教」は、その形態から見ますと、いわゆる情報媒体です。月一回発行され、B5版8頁立てで、気軽に手に取って読める体裁です。「宣教」がこのような「媒体」であること、つまり「モノ」としての形態と、「宣教」の内容との関係などは、ほとんど意識されることはないでしょう。
しかし、このような媒体として在るということは、「伝道の本質」と関わるものですし、今日、それを意識すべき時が来ていると思うのです。「宣教」の使命の積極的な展開のために、この点を意識すべきです。
「媒体」と「伝道の本質」の関係について、ここで詳しく述べることはできませんが、私が、「媒体」を意識すべきだと考える根拠は、「主イエスの伝道」と「使徒たち(教会)の伝道」の違い、という点に遡ります。
主イエスは、「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」と宣べ伝えられました。同時に、悪霊を追放し、病人を癒し、神の恵みの支配の到来を示され、十二使徒を召して、神の民を回復し始められ、その実現・成就のために、主自ら十字架にかかり、復活されました。こうして、主イエスのみ言葉と御業そのものが、神の国の福音そのものとなったのです。
つまり、主イエスの伝道は、「媒体を必要としない」のです。実際、主イエスは書いたものを残されませんでした。
使徒たちも伝道に遣わされましたが、十字架と復活の主イエス・キリストご自身が福音の内容となり、使徒たちの伝道は、主イエス・キリストを宣べ伝えることになったのです。聖霊によって使徒たちは派遣され、「地の果てまで」伝道します。
ここに、伝道の業は、伝道の「手段」や「媒体」を持つことが不可欠となり、その時代に与えられているツールを用いることになります。羊皮紙、パピルス、手紙という形、陸上水上の交通機関、あるいは市民権や裁判といったインフラや社会制度さえ、伝道のために用いられましたし、宗教改革は、ご存じのように、紙と活版印刷技術の飛躍的な向上と普及がなければ推進され得ませんでした。また、聖書的信仰を基盤に実現されていった市民的自由、社会的自由が、今度は自由な伝道の基盤になっていったのです。
このように、使徒たちも宗教改革者たちも、代々の教会が、その時代に合った(在った)媒体を積極的に用い、また変化させて伝道を展開していったのですから、「宣教」という媒体についても、これをどう変えていくかも含めて、利用の方法を大胆に考えることが、宣教の使命実現に資することになると思うのです。
ある出版業界の方に尋ねたことがあります。「学校の教科書を別として、どうしてほとんどの出版物は頑なに縦書きが守られているのでしょうか」と。するとその方は、ちょっと考えて答えました、「理由は、業界関係者が頑なに守っているだけです」と。真偽のほどは不明です。
使命や伝統を守ることが、媒体としての形を守る頑なさに結びついてしまうと、やがては内容に影響され、存在意義まで脅かされます。その点、全国連合長老会の公式サイトで、「主張」を中心に「宣教」誌の主な記事が掲載されるようになったのは、一つの大きな可能性を開くものかもしれません。
読んでもらい聴いてもらうことが難しい時代ですが、「宣教」が、その使命を謙虚にまた大胆に担い、宣教の主と人を結ぶ有効な「媒体」であり続けるようにと願います。
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