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「主張」

※機関誌「宣教」(2010年6月号)「主張」欄より


 中学生・高校生修養会の恵み−宝としての修養会−


 今年で高校生五四回、中学生三 〇回を数える、八月の中学生高校 生修養会大げさではなく、こ の集会は日本の教会の伝道に、大 きく、直接に貢献している、と感 じている。回数が、その存在意義 の大きさを表している。昔から変 わらない、大いなる(しかし素晴 らしい)ワンパターンは、多くの 参加者がこの修養会で洗礼、信仰 告白の決意が与えられ、その後、 各個教会において、洗礼が授けら れる、というものである。実際、 読者の教会の教師や長老や教会員 で、中学生・高校生時代にこの修 養会に参加し、同じような経験を したことのあるものは、数えれば、 相当な数、いるのではなかろうか。
 わたし自身もその中の一人、今 から約二〇年前、高校二年生の時 に初めて参加させていただいた。 まだ会場が朝霧のころである。そ の後、いまだになぜかよくわからな いが、高校を卒業して学生時代に (途中、抜けている時期もあるが) アシスタントをさせていただき、ま た神学生でもお手伝いさせていた だき、また伝道者となってからも、 今に至るまで関わらせていただき、 恵みを味わい続けさせていただいて いる(この原稿を書かせていただ いているのは、そのためである)。
 僭越な言い方が許されるならば、 この交わりは明らかに、全国連合 長老会にとっての財産、宝である。 本当にそう信じる。その意義、始 まりの様子については、季刊『教 会』第三七号において、指導教師 として修養会の始まりから深く関 わってこられた鳥山明子先生が文 章を寄せておられる。また、同じ ように信徒として関わり続けてこ られた富士教会服部武郎(元)長 老の文章も、同じく季刊『教会』 第五九号に掲載され、その雰囲気 をよく伝えている。
 基本的に、そこに書かれている ことと変わりなく、今も継承がな されていると思う。ただし、参加 する生徒たちの中には、時代の影 響を受けた悩みを抱えている者も いる。
 「何をしているのか?」と問われ れば、講演を聞く、合間に少し、 ハイキングをする。友人たちと語 り合う、説明をすればそれだけの ことである。しかし、間違いのな い内容である。聖書の話、教理の 話。特に最近は『カテキズム教案』 と連動しているのが、意義深く、 ありがたい。考えてみれば、『カテ キズム教案』、『明解カテキズム』 も洗礼者を生み出すことを目的と している点で一致している。それ ぞれの教会(日曜)学校の営みと、 修養会とが切り離されることなく 結び付けられている。準備する者 としては、苦労するところではある が。
 参加した者たちの多くが、思い 出として心に刻んでいるのは、主 題別懇談というプログラムではな いだろうか。夜を徹して、信仰に ついて、人生について、そこで知 り合った友人たちと真剣な語り合 いをすることは、参加者にとって の宝となることは間違いない。
 教会の皆さんにお願いしたいこ と、どうぞ安心して、送り出して いただきたい、ということである。 ただし、注意して、間違えないで いただきたい。決して、牧師や長 老や信徒の予備軍を生み出すこと だけが目的なのではない。こここそ が、子どもたちが教会の恵みを発 見する場、その豊かさを学ぶ場だ からである。自分たちの、今礼拝 している教会だけが教会なのでは ない。いやむしろ、諸教会が信頼 して交わりを結ぶ、そこに一つの 教会の姿がある。そして何よりも、 その教会が喜びを味わう場であり、 自分もその教会に召されてその一 員としてある喜びを知るのである。 さもしい計算をする大人のためだ けではなく、参加する中高生の喜 びのためである。
 このような、宝としてのこの集 会のために祈っていただきたい。 今年の八月九日、一人でも多くの 中学生高校生と、三島駅で再会で きることを期待している。


駿府教会 瀬谷 寛





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