二〇〇〇年五月に九州連合長老
会が発足し、今年で発足丸一〇周
年となる。この一〇年という節目
の年にあって、これまでの歩みを検
証し、またこれからの地域長老会
形成に向けての志を新たにするこ
とが求められている。以下、課題
と感じていることを記したい。
我々は、正しく教会にキリスト
の主権をあらわし、教会がキリス
トのからだとしての機能を充分発
揮できるようにするために長老制
度の確立を目指しているのである
が、それは各教会単独でなされる
ことではなく、「地域」という教会
群において初めて意味を持つこと
になる。このことは、我々連合長
老会においては既に周知のことと
思われるが、しかし現実問題とな
るとそれは容易なことではない。特
に牧師の進退、交替に関わる問題
は、牧師あるいは当該教会の個人
プレーになってしまい、同じ連合
長老会と言えども、そこに関わる
ことが非常に困難になってくるので
ある。結果、教会が極めて人間的
な思惑の中で翻弄されるという事
態に陥る。
なぜ、肝心なところで各個教会
主義を克服できずにいるのだろうか。
それは教会の「キリストのからだ」
としての信仰がまだまだ身について
いないからではないかと筆者は考え
る。
「キリストのからだ」という教
会観は、ただ一つの教会の中で完
結していることではない。公同の
教会に連なる全ての諸教会がキリ
ストのからだを構成しているのであ
る。そのキリストのからだの形成に
仕えているのであれば、我々の意
識は自教会だけではなく、他の教
会にも向けられて当然だろう。そ
れが同じ信仰と制度にある教会な
らなおさらのことではないだろうか。
頭であるキリストのもとに一つのか
らだを形成するという意識が、我々
の連帯感を強め、信頼関係を構築
していくのである。そこに立って初
めて教会は個人プレーを克服する
ことができる。
いつも感じていることだが、事が
起こってから動き出すのでは手遅
れである。常日頃から同じ地域に
ある共同体としてお互いに一つの
キリストのからだを形成している自
覚に立ち、共同牧会的に長老、教
会員の訓練を実践していく必要が
あるだろう。教会がキリストのから
だとしての機能を発揮できないのは、
キリストの血がうまく流れていない
からである。つまり「血行不良」
を起こしているのである。隅々にま
でキリストの血を行き巡らすために
はとにかく集まるしかない。教会
同士の交わりの中でこそ解消され
る問題も少なくないのではないだろ
うか。
九州は地域的に広範囲に渡って
いるので集まることもまた簡単では
ないが、近年、南九州での合同長
老会なども開催されるようになり、
工夫次第では充分集まることがで
きるように思う。そのような小さな
集まりを広げていくことで、点では
なく面のつながりを持ち、チームで
助け合っていく、そういう「チーム
力」を育んでいきたい。
また如何にしてこの地域の交わ
りを外に向かって拡げていくかとい
う課題がある。この一〇年間、教
師の入れ替わりは多少あったが、
教会加盟は唐津教会のみである。
我々は連合長老会を単なる旧教派
回帰ではなく、むしろ将来に向け
て正しくキリストのからだを形成す
るビジョンを掲げつつ、そこに連な
る群れを期待する。特に我々の置
かれている九州教区は信仰的にも
財政的にも完全な行き詰まりの中
にある。その中で、意味なく群れ
るのではなく、また政治的でもなく、
ひたすら教会形成だけにこだわり
続ける場所でありたい。そのような
我々の姿勢は、時に不器用に映り、
おもしろみもないものに感じられる
かもしれない。しかし、愚直なまで
に大切なものだけを見つめつつ、そ
れだけを追い求める姿勢は、必ず、
信頼を生み、それに共感するもの
を呼び寄せるだろう。そこに我々
の存在意義があると信じている。
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