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「主張」

※機関誌「宣教」(2010年8月号)「主張」欄より


 献身の勧め


信仰者なら誰もが一度は献身ということを真剣に考え、悩んだことがあるかと思います。しかし洗礼を受けた時すでに、私たちは自分自身をキリストに捧げています。どのような人生を歩むとしても、それは「キリストのため」であり、主に自分を捧げたものとして生きる人はなく…生きるとすれば主のために生き…生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のもの」(ロマ一四・7〜8)なのです。キリスト者は例外なく皆献身者であると言えます。このことを踏まえた上で、伝道者・牧師として献身するとはどういうことかを一緒に考えたいと思います。
それは、キリストがご自身の教会を建てるために、御言葉によって群れを養い、福音宣教の務めにあたる者を、信仰者の中から召し出してお立てになるということです。だから、この献身は、何よりもまず召命が問われます。そして同時にまた、それは御言葉によって群れを養う者を求める教会の必要を、主が満たしてくださることでもあります。その意味では、献身は、私個人の事ではなく、主の教会を建てるために、御言葉の奉仕者を必要とする教会の献身の行為でもあります。
私自身の歩みを振り返ってみても、そこには多くの人の献身的な支えがあったことを思います。信仰的にも幼く未熟であった私の召命を真摯に受け止め、物心両面で支えてくれた牧師や教会、家族の献身がありました。聖書をもっと勉強したい、そして教会のために働くことができたら、という思いで神学校に行くことを牧師に相談しました。この時、家族の中でキリスト者は私一人で、父はそのことを快く思っていませんでした。そのため、神学校への進学は家庭の様々な事情や経済的なことを考えると困難と思われました。しかし牧師は、すぐに神学校への編入の手続きを取り、奨学金を出してもらえるよう交渉し、神学校への道を備えてくれました。また家を出て進学するのを一番反対していた母が最も良き理解者となってくれたことも驚きでした。反対されるのを覚悟し、話を切り出した私に、母は「家を出て一般大学に行くと言うのなら絶対反対だけれど、神学校で聖書を、神さまのことを学ぶなら間違いはないでしょう。あなたはよいものを選択したね」と言って送り出してくれました。
洗礼を受けて一年足らず、何も分からずに思い切って飛び込んだ神学校でした。そこで様々な経験をしました。自分は本当に伝道師・牧師としてやっていけるか、周りを見て不安を覚えることもありました。けれども、人と比べて自分の中に何かふさわしさを見つけようとすることを止め、すべてを主に委ねよう、もし私の献身が御心に適うものでなければ続かないし、続くならそれを御心として受け入れて、この道を歩んで行こうと何度も思いながら神学校生活を送りました。
献身はたしかに間違いなく一人の個人の決断であり、行為です。しかしその献身の歩みは、決して孤立してあるものではありません。多くの人の献身に支えられ、助けられてあるのであり、すべての人を通して働いておられる主ご自身によってなされていくのです。
献身にもいろいろな道があります。長老として、教会学校教師として、信徒として仕えていく道があります。そのような献身の歩みの中で、もし伝道者・教師として召しを受けたなら、教会と共に祈りをもって新たな献身の決断をして欲しいと思います。主の召しに応えて、良きものを選んだ献身者に対して、牧師も教会も精一杯の献身で応えないわけにはいきません。主がご自分の愛する教会のために必要なすべてを整え、全てを完成させてくださることを信じ、主に在って一緒に献身の道を歩んでいきましょう。


須磨月見山教会 上原智加子





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