長老教会は伝統的に牧師・教師・
長老・執事四つの職制を持ってい
ます。教師は、学校の教育に携わ
り語学や神学を教える者ですから、
各個の教会で言えば牧師・長老・
執事の三職を持つわけです。これ
はキリストの三職に対応します。
牧師=預言者、長老会=王、執事
会=祭司です。しかし、現在私共
の教会の全てがこの三職を持って
いるわけではありません。牧師と
長老という二職だけを持つ教会も
少なくないでしょう。勿論、執事
職を持たない教会は十全な教会で
はないということでは全くありませ
ん。長老会が、執事職の務めも包
含して担っているからです。しかし、
最近執事職を設ける教会が増えて
いると聞きます。そこには、執事
職に対しての理解を改めて受けと
め直して、より主の御委託に応え
たいという願いがあるのでしょう。
ここで長老職と執事職の務めを
整理しますと、長老職の務めは、
主の教会が御言葉のご支配の下に
秩序ある営みがなされるようにす
ることです。それは、礼拝の秩序
を護り、教理を擁護し、信徒の訓
練を為し、伝道することです。一
方執事職は、教会がキリストの体
として、愛の共同体として建って
いくための業に仕えます。それは、
弱く小さな者を護り支える為の業
です。このように見ていきますな
らば、執事職を設けていない教会
も、長老会がその務めを果たして
いることは明らかです。執事職を
設けるということは、この長老会
が担ってきた執事職の務めの部分
を自覚的に仕分けるということで
あって、何か新しいことを始める
ということではないのです。
しかし、執事職を設けても何も
変わらないということならば、改
めて執事職を設ける意味はありま
せん。この長老と執事の職務の自
覚的分担ということを通して、長
老会が本来為すべきことは何かと
いうことが具体的に問われること
になるでしょうし、神様の愛の業
に仕えるとは具体的に何をどのよ
うに為していくことなのかを問わ
れることになるでしょう。そこで
改めて、主の御委託に応えていく
私共の姿が問われ、整えられてい
くはずなのです。ここで執事は、
神様の愛の業に仕える業を、自分
達だけが担うのだと考えてはなり
ません。執事の務めとして大切な
ことは、教会員の一人一人を、神
様の愛の業に参与させるために、
教会員の賜物をコーディネートす
るということです。愛の業に仕え
るのは、教会全体に与えられた務
めだからです。
また確認しておかなければなら
ないことは、長老と執事とはその
職務が違うということであって、
その関係は上下関係ではないとい
うことです。勿論、執事は長老の
見習いというようなものでもあり
ません。現行の『連合長老会式文』
の執事の任職式の式辞には、「執
事とは牧師及び長老を補佐し教会
に仕えるために選挙された者」と
ありますが、これだけですと長老
が上で執事が下という印象をぬぐ
えません。しかし、長老も執事も
それぞれが神様の選びによって召
し出され、キリストの主権に仕え
る者として主に与えられた職務に
あたるの者なのです。
ここで、長老会・執事会をチー
ムとして捉えても良いでしょう。
この場合「チーム長老会」或いは
「チーム執事会」と捉えることも
出来ますし、長老会と執事会が一
つとなってチームとして機能する、
或いは長老会・執事会と教会員達
とが一つとなってチームとして機
能すると捉えることも出来ます。
このチームは、皆が同じ主の日の
御言葉に養われた者として、一つ
の目当てに向かって、一丸となっ
て進むのです。その為には、どう
しても互いの連絡を密にすること
が大切となります。どんなにシス
テムを整えても、これがきちんと
為されなければ、教会としては十
分に機能を発揮することはないと
いうことを、私共は弁えていなけ
ればならないと思います。
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