最近、めずらしいことに結婚式
が続いた。教会では当人たちの意
志を確認した上で、長老会に諮り、
結婚に向けてのカウンセリングを
開始する。大抵の場合、二人の内
の一人が教会員であるケースが多
く、結果としてその相手の未信者
のためにキリスト教入門のような
話から始まる。
しかし、改めてこの結婚準備の
期間が伝道の好機であることを認
識させられる。つまりそれは牧師
の伝道というよりは、その教会員
が自分の結婚相手のために真剣に
伝道する姿を垣間見ることができ
るからだ。隣に寄り添いながら聖
書の開き方から祈りの姿勢にまで
細かく気を配り手助けする。それ
は微笑ましい姿であるが、そこで
気付かされることは、我々が伝道
する時に、果たしてこのように一
人の人のために真剣に手助けをし、
祈り、神の御前に共に歩むことを
切望してきただろうかということ
である。
もちろん、結婚する二人が共に
信仰者であることは望ましい限り
だが、そうではない場合、むしろ
そこで我々が意識しなければなら
ないことは、この結婚を伝道のた
めの結婚と捉えることである。夫
婦は「神が結び合わせてくださっ
たもの」(マタイ一九・6)であ
る。つまりそれは当人たちの思い
を超えて、互いの救いのために、
神が二人を選び、出会わせられた
と理解することができる。また結
婚式で必ず読まれる「二人は一体
となる」(創世記二・24)との御
言葉も、夫婦が互いの救いに対し
て責任を担い合うことを意味して
いると捉えることができる。結婚
は、二人が一つのキリストの体を
形作ることを目的として備えられ
た伝道の重要な機会であることを
覚えたい。
その信仰に立って結婚を見つめ
直す時、我々は家族のためにどれ
ほど真剣に救いを求めるだろう。
同じ家庭の中にあって全く無関心
というわけにはいかない。それは
また夫婦に限らず、授かった子ど
もに対しても同じである。妻、夫
のために、我が子のために真剣に
祈り、共に一つの体に結ばれるこ
とを願いつつ歩むに違いない。そ
してその願いは決して御前に退け
られるものではない。今、自分自
身が一つの家庭に信仰者として生
きていることの意味をもう一度考
えてみよう。
マザー・テレサが「愛はまず家
庭から」と言ったことは有名であ
るが、青年伝道も教会学校教育も
声高に叫んだからといってできる
ようなものではなく、小さな一つ
の家庭から始まるものではないだ
ろうか。教会学校の業一つにして
も、家族の祈り、理解なくしては
なし得ないものである。若い母親
が小さな子どもの手を引いて教会
学校に連れてくる。我が子が中学、
高校、大学になっても努めて礼拝
に出席するよう促す。その家庭の
中での親の有り様が問われている。
そしてその親の信仰を支え、祈り
を導くのがむしろ教会の務めであ
ろう。またそういう信仰の家庭を
築く手助けを教会は疎かにしては
ならない。
クリスマス礼拝後の愛餐会に若
い家族の姿が幾つもあった。その
中のある教会員の未信者の夫はサ
ンタ役を喜んで引き受けてくれた。
教会学校の子どもたちにプレゼン
トを配る姿をその見て、家庭での
伝道、その妻である教会員の祈る
姿を思い浮かべることができた。
青年伝道に秘策はない。まず教
会は、青年のある家庭、家族への
牧会、また新しく家庭を築こうと
している若い青年たちに福音の喜
び、恵みを伝えることに専心すべ
きである。そのようにして信仰の
家庭を形成すること。そこから教
会の将来を担う子どもたち、青年
たちが生まれてくることを何より
も我々は期待したい。青年伝道を
「まず家庭から」見直してみては
どうだろう。
|