東日本を襲った大地震(「東日
本大震災」二〇一一年三月一一日)
からまもなく一年が経つ。この地震
は周知のように地震そのものよりも
津波とそれに伴う原子力発電所の
事故とが甚大な被害をもたらしてい
る。復興が困難なのは被災が広域
にわたるばかりでなく、地盤沈下に
よる冠水地帯が生じたこと、津波
被害を再び被る可能性のある地域
であること、また放射性物質の徹
底した除去が困難であり放射線の
半減期さえ想像を超えた時間がか
かることにある。元通りにするとい
う意味での再生が考えられにくいの
であって、被災者の多くは愛する
者を失った悲しみに追い打ちをかけ
られるような状態に希望を失いかけ
ている。
教会の建物被害が比較的少なかっ
たのは、沿岸地域に教会が多くな
かったことにもよる。言い換えれば、
これらの地域に十分な伝道を展開
できていなかったのである。多くの
町は習俗一体の共同体を形成して
いたのであり、死者の弔いに際して
も合同法要(供養)を営むことが
できる素地があった。死者との交
流、仏教的冥福などアニミズムや
それに伴うシャマニズムの大地であ
ることを思い知らされた次第である。
キリスト教関係者は、被災地の
人々に寄り添う仕方で様々な支援
をした。愛の行為を市民的なボラ
ンティアとして展開したのであって、
これからもそういう仕方で関わって
行くであろう。
私たちは、それとともに、神の言
葉を福音として取り次ぐ使命を与
えられていることを見失ってはなら
ない。被災直後に被災地以外に避
難した教会員から、その地にある
教会の礼拝に出席した際に講壇か
ら神の裁きのみが語られていること
を受け止めかねていたと聞かされた。
この事態をどこか他人事にしている
のではないかと訝ったが、それなら
私たちはどのように神の言葉を取り
次ぐのだろう。
「陰府」に降られたキリストは
「言い難い憂い、苦痛、恐れ」をそ
の身に受けながら、私たちを「地
獄の不安と苦しみ」から救ってくだ
さる救い主として(『ハイデルベル
ク信仰問答』四四)、今、被災地
をも歩んでおられる。私たちは、そ
の事実を証しするために教会を建て
ねばならない。被災前もそうであっ
たように、福音をよりどころとして
来た私たちは、これからもそうする
のであって、神の言葉に聞き、神
の言葉を取り次ぐ共同体を形成し
て行くことである。そのような共同
体は、地上的禍福と、死を越えた
命に生きるのであって、その成員の
誰もが救い主イエス・キリストにあ
る神の祝福を慕い求める。キリスト
こそ生死を越えた、世界の真の主
であることを知っている。私は、そ
のような信仰共同体を形づくって
行くことが、被災地にあっても、
神と地域に仕える道であると信じて
いる。
この地域には、「改革長老教会
の伝統を尊重する」との全八条か
らなる規約に基づいて「東北改革
長老教会協議会」が形成されてい
る。現在一〇教会が長老会の承認
を経て加入しており、加入教会の
牧師と長老各一名による年三回の
常務委員会のもとに、全体研修会、
長老・執事研修会、青年の集い、
講壇交換、牧師招聘の協力などを
行っている。牧師会にも加入教会
以外からの参加があり、一五名ほ
どが毎月集って、説教批評と改革
派教会の神学書(現在は熊野義孝
の『教義学』)を読んでいる。全
体研修会では、教会制度について、
最近ではニカイア信条、今年度は
一八九〇年「信仰の告白」を継承
すべき信仰の遺産として新鮮な思
いをもって学ぶことができた。ま
た『はじめて長老・執事となる方
のために』を千部発行した。連合
長老会の規約二条にあたる当方の
規約条項さえ改正すれば連合長老
会と遜色がないと自負しているの
であるが…。
「被災教会再建献金」を全国改
革長老教会協議会と共に献げてく
ださり心より感謝しています。
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