アドベントは、「献身の勧め」
の季節でもあります。なぜ、アド
ベントが「献身の勧め」の季節な
のでしょうか。
「キリストは、神の身分であり
ながら、神と等しい者であること
に固執しようとは思わず、かえっ
て自分を無にして、僕の身分にな
り、人間と同じ者になられました。
人間の姿で現れ、へりくだって、
死に至るまで、それも十字架の死
に至るまで従順でした」(フィリ
二・6〜8)。
初代教会の讃美歌の一節と言わ
れる「キリスト賛歌」です。キリ
ストの到来であるアドベントの目
的は、十字架の死にありました。
そのために、神の身分であるキリ
ストは人となられ、へりくだり、
十字架の死に至るまで、御父に従
順であられました。熊野義孝は
『教義学』において、キリストの
従順に、キリストの召命と献身を
見ます。そこに熊野義孝の贖罪理
解のユニークさがあります。『教
義学』の中で、「献身」という特
別な項目を設けています。キリス
トの十字架の死は、私たちのため
の罪の贖いとしての犠牲的な性格
を有すると共に、私たちに代わっ
て律法(神を愛し、人を愛する)
を充足された献身的な性格を有し
ます。十字架の死は、キリストの
献身の出来事であり、献身者とし
て自己の使命を全うした出来事で
した。キリストの献身としての十
字架の死は、私たちに新しい生活
を形成させる力となります。キリ
ストの献身に触れた私たちも、新
たなる召命と献身に生きる者とな
ります。贖罪は贖生となります。
熊野義孝が再三再四強調する、
神の永遠の共同体(教会)形成の
意志は、キリストにおいて実現し
ました。神の永遠の共同体形成の
意志は、御父の意志に従順であっ
たキリストの召命と献身において
実現し、キリストによって召集さ
れ、キリストの者とされた私たち
によって継承されます。アドベン
トは、キリストのこのような召命
と献身に触れ、私たちも召命と献
身を新たにする時です。献身者と
は伝道者だけではなく、キリスト
の体に連なるすべての者なのです。
熊野義孝はまた『キリスト教の
本質』において、キリストの召命
と献身を継承する私たちキリスト
者は、もはや歴史の観察者足りえ
ず、自ら歴史の形成者、新たなる
教会史の制作者とならなければな
らないと論じます。そしてこう語
ります。「召命は冒険的行為を要
求する」。到来を意味するアドベ
ントから、アドベンチャー(冒険)
という言葉が生まれました。アド
ベントは、キリストの冒険の出来
事です。
最近、森有正再読ということが
言われています。私も大学生時代
に読んだ森有正の書物を書棚の奥
から引っ張り出して再読していま
す。その中に、「冒険と方向」とい
う講演があります。「冒険とは自分
の心の軸をほかのものに結びつけ、
それとともに生き、それとともに学
び、それとともに苦しみ、その中か
ら自分の魂を豊かにし、ほかを豊
かにしてゆく道。冒険とは自分で
ないある一つのものに結びつけられ、
そのものに方向づけられる面を持っ
ている」。その具体的な姿を、神の
御言葉のみに従い、行く先も分か
らずに旅立ったアブラハムに見てい
ます。神の永遠の共同体形成の意
志に従順であったキリストに結びつ
けられた私たちは、その召命と献
身という冒険に生きるのです。
私たちは、神の永遠の共同体形
成の意志を、日本において、日本
基督教団において果たして行くこ
とになります。歴史の観察者とし
てではなく、歴史の形成者、新た
なる教会史の制作者として果たし
て行きます。その冒険の道は、
「全国連合長老会規約」第一条、
第二条を具体化することにありま
す。教団にあって、改革派の信仰
と長老制度を重んずる地域連合長
老会を形成することに、召命と献
身を新たにするアドベントであり
たいと願います。
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