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※機関誌「宣教」(2013年7月号)「主張」欄より


 教区における地域連合長老会の課題〜九州篇〜


 「九州は大変ですね」、よくそう いう労いの言葉をいただく。もち ろんそれぞれの地域固有の課題が あり、九州だけが特別に大変とは 考えていない。ただ「反教団」が 多数派を占める九州教区にあって 苦労することが多いのも事実であ る。特に教区総会を控えている時 期が一番しんどく気が重い。この 原稿を書いている時にちょうど教 区総会の資料が送られてきたが、 今年の総会も我々の気分を逆なで する議案が目につく。「教団の独 裁的状況下における九州教区の態 度表明に関する件」このような議 案が平然と上程される教区である。 その中で、それでも我々が存在す ることの意義は何か。
 九州教区は、教区として教勢報 告を一切しない。そんなことには 関心がないかのように、自分のこ とよりも社会の問題に目を向ける ということだろうか。いやむしろそ ういう教会の現実から意識的に目 をそらしているようにしか思えない。 それは愚かとしか言いようがない。 世の中の変革を叫んでも、自分た ちの危機的状況と真正面から取り 組もうとしないのである。
 そして、それは教勢、経済のこ とだけではない。肝心なキリストが 見えて来ない。福音が語られない。 それは致命的と言わなければならな い。そのような中で、それでも教会 を名乗ることはうわべだけを飾って いるようでとても空しい。九州教区 は、形は教会の形態をとっているが、 それは単なる「集団」に過ぎず、 キリストの体としての内実は無きに 等しいと言わなければならない。
 宮本信之助先生は、「宣教」第 八九号(昭和三四年九月)に「教 会を集団化するな」という題で次 のような一文を載せている。重要 なところなのでぜひ引用させてい ただきたい。
 「一教団として考えれば自分の 教会が所属するからとの理由から だけ、他の教会と交わるのであれ ば、教団は集団にすぎない。この ような事態の中では教団や教会か ら発する言葉は、権力を背景にし た強制がましい命令となりかねな い。教会は集団ではない。活ける 人格、キリストが交わりの主とし て生命を共に分ちつつ生きて下さっ ている共同体である。(中略)この 首なる主に対して、聖霊の導きの もとに共に同じ信仰の告白に生き るか否か、これこそ、教会を首な るキリストの体たらしめるか、集 団化するかの分かれ目である。教 会を集団化するな!」
 もう一度、この我々の先輩の言 葉を心に刻みたい。残念ながら九 州教区はすでに集団化してしまっ た。それはただ所属するという理 由だけで集まっている集合体に過 ぎない。それ以外にどういう理由 で教区の集まりに我々は参加する だろう。そこで行われていること にキリストの体は見えているか。
 しかし、その中で単なる集団に 収まらない場所を我々は有してい る。そこを守り抜くことこそ、こ のような教区にあって我々が存在 することの意義である。どんなに 空しい議論が繰り広げられる議場 であっても、我々の発する言葉が、 そこにキリストを映し出すものと なればそれでよい。
 ただし、我々もうっかりすると、 この集団化の誘惑から自由ではな い。ただ連合長老会に所属するこ とだけで集まっているならば我々 の教会も容易く集団に成り下がる。 よく組織や制度を整えれば自然に 教会が出来上がるような錯覚を抱 くことがあるが、それは本末転倒 であり、そこでの決定は上部組織 から下部組織への権力行使となる 以外にない。
 教会形成とはキリストの体を建 てることである。それは抽象的な ことではなく、聖霊の導きのもと に首であるキリストに連なり、そ の主権が現されるように教会、教 区、教団を整えることである。そ の上に立ってこそ、規則や制度は 必然的に整えられていく。教会を 単なる集団と化す誘惑に抗して我々 は歩みたい。


錦ヶ丘教会 川島 直道


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