過日開催された東中国教区総会
において副議長に再選された。教
区内に長老教会が唯一であること
を考えると、かなり稀なケースだ
と言うことができる。もっとも、
このような状況がいつまで続くの
か分からないことも事実である。
そのような教区を背景に「教区
における地域連合長老会の課題」
というテーマを頂いたのだが、い
ざ書き始めてみると、はたと筆が
止まる。「教区における」と言わ
れても、前述のとおり、教区内で
は私が仕えている教会が唯一の長
老教会である。しかしながら、そ
こを踏まえて、与えられた課題に
思いを馳せてみる。
この教区は組合教会の伝統を持
つ教会が大多数であり、従って組
合教会的な考え方が支配的である。
つまり、他の教会の動向に関して
は、興味を持つことはあっても干
渉しない、というスタンスがある
程度貫かれている。そのため、私
たちの教会が西部連合長老会に加
盟することになっても、他の教会
の牧師たちは、心の内に何か思う
ことはあったかもしれないが、表
だって言葉にすることはなく、基
本的にその教会の動向をその教会
の独自のものとして見ている。そ
の点では、前任教会の某教区とは
正反対である。その意味だけで言
えば、連合長老会の教会であるこ
と、連合長老会の教会として歩む
ことに対して、実は全くと言って
良いほど差し障りがない。それは
裏を返して言えば、「連合長老会
だから」という理由で批判を受け
ることも、対抗されることも(表
面上は)無いということである
(東神大出身とか、現教団執行部
寄り、となると話は違ってくるが)。
批判されたいわけではないが、
その教会のあり方だから、という
ことで受け入れられてしまうと、
実はその時点で教会が完結してし
まう可能性がある。とりわけ長老
教会にとって、一個教会のあり方
をそのままに受け入れられると、
その一個教会で長老制度が完結し
てしまっているという錯覚をおこ
す要因になりかねない。そうなる
と、地域連合長老会への展開が億
劫になることがある。ということ
は、この教区における地域連合長
老会の課題は、一つの教会で長老
教会が完結してしまうという感覚、
あるいは錯覚、また、自分の教会
のことだけを考えていれば十分と
いう思いを、どのようにして払拭
するか、という点にある、と言う
ことができる。
それは、この教区に限った話で
はないのかもしれないが、長老教
会であっても、知らず知らずのう
ちに組合教会的な考え方になって
しまう可能性はある。そうである
ならば、教会は一つの教会では成
り立たない、ということを、この
教区にあって明らかにすることが
一つの使命、課題であると言える
かもしれない。
近年、教区内では、地方教区特
有の財政問題に絡んで、連帯や共
同ということが頻繁に話題に上る
が、一つの教会では成り立たない、
ということを、単に財政問題のこ
とにするのではなく、教会の根幹
にかかわる問題として証しするこ
とも大切なのだと感じる。実際、
財政的には小さな教区と言えども、
西部連合長老会よりはるかに豊か
なのである。金銭的援助だけなら
ば、破綻の危機を抱えてはいても、
教区のほうが西部連合長老会より
もまだ手厚い。だからこそ、財政
問題だけではない、教会の本来的
な連帯のあり方を証しすることが
出来ないだろうか。
地域連合長老会が存在している
のは、まさに個教会が有機的に結
合し、「生きた」キリストの体に
なるために他ならない。教区だか
らできることもあるかもしれない
が、教区にはできないことを地域
連合長老会がしっかりと責任を果
たすことが出来るならば、それは
教区に対する証しになる。西部連
合長老会が、そのような地域連合
長老会であり得るかどうかが、い
ま問われているように思われる。
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