教会総会における長老選挙で長老に選ばれた時、「私のような者が 長老としてふさわしいのだろうか」との思いを誰もが抱くことでしょう。その時、長老選挙の前に、牧師が 朗読した聖書の御言葉を想い起して下さい。「兄弟たちよ。あなたが たが召された時のことを考えてみるがよい。・・神は、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである」(Tコリント一・二六、二八、口語訳)。 長老に選ばれたのは、ただ神の選びと召しによるものです。長老任職式で主の御前で誓約をしますが、そこで問われるのも、この一点です。「あなたは今、主の選びと召しにより、長老の職に任じられようとしています。あなたがこの職に任じられるのは教会の頭であり、大牧者である主イエス・キリストの召命によるものと確信しますか」(全国連合長 老会式文委員会「『諸式』式文(案) 」。主の選びと召しに対して、 教会の頭であり、大牧者である主イエス・キリストに喜んで献身し、祈りと謙遜をもって仕えるのみです。
長老としての召しの自覚は、長老会の一員として召されている自覚と一つです。従って、長老の務めは長老個人としてではなく、長老会の務めを担うことにあります。長老会に属する各長老が、それぞれの欠けを補い合い、それぞれの霊の賜物を生かし合いながら、主と教会に仕えるのです。長老任職式において長老按手が行われます。長老按手は神の選びと召しのしるしであり、教会の信仰である「使徒的信仰」である「信仰告白」の継承の務めを主から任命されるものです。主イエス・キリストが弟子たちに託された「天国の鍵の権能」(マタイ一六・一九)、 即ち、「罪の赦しの権威」「戒規を執行する権威」は、長老制度の教会においては、長老会に委ねられています。
先輩長老に必ず、「私もあの長老のようになりたい」と、「手本」にしたい長老がいるはずです。その方の信仰と存在から滲み出て来る「キリストの香り」、「長老の品格」があります。そのような「長老の品格」は他のどこでもなく、主日礼拝において形造られていきます。説教を聴き続け、聖餐に繰り返し与ることにより、「神礼拝に喜んで生きる人間」として、顔つきも、歩き方も、声も、まなざしも変えられる「礼拝本能」を身に着け、それが「長老の品格」(美しい信仰の姿勢)を形造り、教会員の「模範」となります。長老に何よりも求められることは、説教の良き聴き手になることです。そのために、長老は教会員の先頭に立って「宣教長老」である牧師・説教者のために、御言葉を正しく、大胆に語れるよう祈ってほしいと願います。
北陸連合長老会では、新たに長老に選ばれた方に、『長老の職務』(北陸連合長老会編)を巡回長老会の時に贈呈します。その中に、長老としての召しは、何よりも愛と結び付いていることが強調されています。キリストを愛し、教会を愛し、教会員を愛し、教会の伝統を愛し、御言葉を愛することです。このような愛を身に着ける長老の訓練は、各個教会だけでなく、何よりも地域長老会で行われることです。
長老会の務めを問う時、伝道者パウロがエフェソの長老に向かって涙を流しながら語った遺言説教(使徒言行録二〇・二五‐三二)を想い起します。長老会の重要な使命を二つ挙げています。第一は、「神が御子の血であがない取られた 神の教会を牧すること」(口語訳)、即ち、教会員の魂への配慮をすること。第二は、「使徒的信仰」を継承し、「教会の教理を擁護」することです。カルヴァンは聖餐共同体としての教会形成を目指し、聖餐に与るための主の弟子としての教会訓練こそ、「魂への配慮」として位置づけました。牧師と長老が教会員の家を訪ね、聖餐に与る準備としての「牧会の対話」「悔い改めの対話」を行い、陪餐資格を確かめました。それを今日の時代にどのように生かすかです。礼拝に出席できない高齢・ 病床の教会員のために、牧師・長老の「訪問聖餐」の回数を増やすことは、改革派教会が重んじた聖餐に与るための「魂への配慮の対話」と言えます。
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