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「主張」

※機関誌「宣教」(2017年10月号)「主張」欄より


 「我らここに立つ − 宗教改革五百年」


 「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」(ロマ七・ 24 )。宗教改革者たちは人間の惨めさをよく知っていた。「我々の本性は非常に深刻に自分自身の中へと折れ曲がっている」(ルター)。「あなたが唯一の慰めの中に祝福されて生きかつ死ぬことができるためには、何を知らなければなりませんか。まず第一に私の罪と私の悲惨さがどんなに大きいかということです」(ハイデルベルク信仰問答)。だからこそ恵みのみ、キリストのみ、信仰のみへと向かった。いや向かわざるをえなかった。現代は人間の惨めさを表面では分かったつもりでいる。だから自分で何とかできると思っている。神によって救われなければならないとまでは考えない。この違いが確信の違いに現れる。
 一つの出来事を思い起こす。一五二一年四月一八日、ヴォルムスの帝国議会にルターは召喚され、自説を撤回せよと強要された。ルターは答えた。「良心に逆らって行動することはむずかしいし、災いであり、危ういことなので、私は自説を撤回しませんし、しようとも思いません。私にはほかのことができません。我ここに立つ。神よ、私を助けたまえ! アーメン」。深層を知る者だからこそ、確信は揺るぎない。まわりが風になびいているにせよ、ただ一人、いかなる妨害にも屈せず、立ち尽くす強さがある。
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   森有正が長いフランス滞在を経てたどり着いたものは、日本人の経験と思想の中には本当の個人の独立・人格の尊厳がないということだった。文法的には一人称、二人称、三人称があるにしても、真剣に他者との間に〈我―汝〉の関係を結ぶことがない。あるのはただあなたにとってのわたし、わたしにとってのあなたでしかない私的な〈汝―汝〉の二項関係である。これでは三人称の客観的な「社会」は成り立たないし、その核を形作る堅固な「自己」も溶解する。身勝手な一人称に二人称を取り込んで歪んだ一人称の複数形を作る。絶対他者である神の前でだけ、どんな人間も自由にして平等な三人称の人格であることが可能になる。なれ合いではない関係を取り結ぶところに、成熟した近代市民社会が生まれる。そしてこれは、ヨーロッパがキリスト教の長い歴史を通して深めた〈経験〉であった。
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   半世紀を経過した今、僕らはまだ森有正の宿題に答えていない。もちろんプロテスタンティズムは個人主義の宗教ではない。改革者たちは教会の改革を目指したのであって、教会の解体を願ったのではない。改革者たちの確信は、神の前にひるむことなく我ここに立つことのできる自由なる個は、まさに自由なる教会共同体の中でこそ養われ育まれるということだった。今改めて私たちもこの国にあって、神の前での堅固な自己を持ち、そのようなしっかりした個を育てる聖書の共同体を、恵みのみの証しの集団として築き上げる使命を覚えたい。
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   シケムでヨシュアは民に恵みを思い起こさせ、そして「あなたたちはだから、主を畏れ、真心を込め真実をもって彼に仕え、あなたたちの先祖が川の向こう側やエジプトで仕えていた神々を除き去って、主に仕えなさい」と迫る。彼は問う。「もし主に仕えたくないというならば、川の向こう側にいたあなたたちの先祖が仕えていた神々でも、あるいは 今、あなたたちが住んでいる土地のアモリ人の神々でも、仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい。ただし、わたしとわたしの家は主に仕えます」(ヨシュ 二四・ 13 ― 15 )。恵みのみ、キリストのみ、信仰のみの証人とし て、〈我ここに立つ〉から〈我らここに立つ〉へ。権力におもねり「忖度」するこの国の貧しい政治風土の中で、改めて証人の共同体として、いかなる妨害にも屈せず、「我らここに立つ」者にならせていただきたい


東京神学大学教授 芳賀 力


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