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※機関誌「宣教」(2018年7月号)「主張」欄より


 「連合長老会が改革長老教会 協議会運動を始めた限りは」


 三十年以上も前の話。当時の上良康十貫坂教会牧師から「改革長老教会協議会主催の公開講演会に手伝いが必要」と言われ、多新氏(現高原教会牧師)と共に会場係の奉仕をした。講師は熊澤義宣東京神学大学教授と熊野清子武蔵野教会牧師。前者はまるで階段教室の前方で黒板の脇に立つかのように、聴衆の知的好奇心を膨らませるような講演をされた。その論旨の明瞭さに感銘を覚えた。すると後者は反対に、今度はまるで黒板の前に立ちはだかるかのようにして、小柄なお身体に見合わぬ 堂々たる語り口で講演された。引けを取らない明瞭な論旨もさることながら、驚いたのはその情熱である。メモを取るのも忘れて聴き入った。その講演が聴衆皆の心を打ったのであろう、生まれて初めて聞くような実に大きな「アーメン」唱和が富士見町教会の前礼拝堂に響き渡った。感動した。
 あの日、二人の講師のお陰で筆者は直感的に悟ったのであった、「これが信仰の一致である」ということを。同じ信仰なのだからアプローチは千差万別、個性的で構わない。寧ろ一つの信仰のゆえに異なる個性、仲間の自由なスタイルというものを安心して認め合うことができるのである。そして互いを喜び合い、励まし合い、ついには協力し合い、配慮し合って全国に幾つものユニークな群れが形づくられていく。そのように知り得、確信が与えられて、筆者は改革長老教会協議会運動のおもしろさを実感したのであった。
 あの日の教会青年が改革長老教会協議会事務局長になっている不思議を思う(二〇〇九年一〇月二六日付)。そしてあの時のおもしろさを懐かしく感じると共に、あの日のアーメンを凌駕するアーメンを改めて聞いてみたいと願う。だが、そこで気付いた。なぜ自分は今、あの頃を懐かしく思うのであろうか、と。それは、あの日に感じた熱気や真剣さがいつの間にか小さく、或いは乏しくなって来ているように感じられているからではなかろうか。
 もちろん協議会運動に参画する教会は信仰告白では一致しているに違いない。ニケア信条、使徒信条、一八九〇年の告白そして教団告白に、我々の誰もがアーメンと言える。そこに協議会運動の果たした成果を見ることもできよう。しかし事務局に聴こえて来るのは「自分の教会だけで精一杯」とか「自分は推進したいと思うが周り(の長老や近隣教会の教職)が及び腰」と言った声である。その声は単なる愚痴かも知れないが、そうとすれば、協議会運動をおもしろがっているとは言えないように思う。誤解を恐れずに言えば、運動体なのだからおもしろくなけれ ばやめていいのだ。協議会運動は歯を食いしばってでも継続させねばならない、などというものではない。ただし、なぜ自分がおもしろいと思えなくなったか、その点は明瞭にされたい。そしてその自己点検の結果、おもしろくない理由が「自分の思い通りにいかないから」とか「(嫌いな)あの人に誘われても、ちょっと…」などというご都合主義であるなら、そもそも本当に信仰の一致があったのかどうか、その視点から吟味し直したほうが良いように思う。少なくとも、この教団で共に教会形成 を担うか、或いは袂を分かつのか、そのどちらが御心と信じるのかを尋ね求めて決断してもらいたい。
 「改革長老教会協議会は連合長老会の外郭運動体。両者は同心円の関係にある」ということは筆者も上述の“あの日”から聞かされてきた。その一方で「急かさないでほしい」という声も聞かされ続けてきたのである。だがもう良かろう。連合長老会はいつまでこの運動を続けるのか。地域連合長老会を作れない、或いは作ろうとしない教会との関係は我々自身がそろそろ整理しても良い筈である。義理や人情では教会は建たない。(全国連合長老会渉外委員会書記)


横須賀小川町教会 寺田 信一


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