「神の国の皇女、皇子の皆さま」。 宗教改革五百年・鎌倉雪ノ下教会伝道開始百年記念は、代田教会平野克己牧師のこの言葉で始まりました。一九七九年から三度来日された、ルドルフ・ボーレン先生が、最初に私達の教会の説教卓に立たれた時の挨拶の言葉でもありました。この間に四十年の歳月が流れています。ボーレン先生が一九七四年にハイデルベルク大学神学部に招かれ、説教研究に没頭されて、一四年後に教授を退任された時期と重なるのです。こうして私達の伝統が引き継がれて参ります。
聖書は記します。「あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです」と。「神の国の皇女・皇子の皆さま」、何という光栄な呼び名でありましょうか。しかし四十年前に既にこのように呼び掛けられていながら、私達は、どれほどのことをすることが出来たのかを振り返る時、反省せざるを得ません。
神奈川連合長老会では、昨年七月「宗教改革五〇〇年記念修養会」を開催し、一六教会二二〇名が一同に会し、講師として立てられた藤掛順一牧師の丁寧で行き届いた講演に与りました(以下はその内容に負うところが多々あります)。ルターの「九五箇条の提題」は、已むに已まれぬものがあってのことでした。当時の人々にとって「救われる」とは「天国に行ける」ことでした。その条件は「よい行いをすること」でした。それが出来ない人は「地獄に落ちる」と教えられていました。天国に行けない魂は、死後に罪の償いのために苦しみを受けなくてはならないという恐怖にさらされていたのです。そこに聖人たちによって教会に蓄えられていた「よい行いの遺産」を有償で提供し、償いを免除するという制度が「贖宥状」の販売であり、償いの免除をお金で買うと いう「免罪符」の発売に至りました。このお金がローマに送られ、バチカンのサンピエトロ大聖堂の建築に使われた時、ルターはこの神学的討論を呼び掛けたのです。
さらに「教会の伝承」が、聖書の語る「み言葉の真理」を正しく伝えていないこともルターの不満でした。そこで、@信仰のみによる義認(ロマ三・ 21 ― 26)、A聖書のみ(Uテモ三・ 16 )という提題に至りました。「よい行い」という条件を満たすことではなく、「ただ、キリストによる贖いを信じる信仰のみによって、無償で義(正しい)とされる」という福音に至ります。そして、カトリックの「聖書と伝承」に異義を唱えてまいります。 ローマの教会の指導者が、あたかもキリストの代理者であるかの如く、伝承によって権威づけられている現実に「聖書のみが信仰の基準」であり、私共の告白する「教会の拠るべき正典なり」(日本基督教団信仰告白)、「新旧両約の聖書のうちに語り給う聖霊は宗教上のことにつき誤謬なき最上の審判者なり」(日本基督教会信仰の告白「使用版」)という告白を生んで参りました。この「聖書のみ」の信仰が、聖職者だけに祭司性を限定していた時代であったにも拘らず「全信徒祭司性」の提唱の論拠となり、いわゆる宗教改革の第三の原理「万人祭司」として広く世間に広まったのでした。
祭司の務めは「いけにえを献げる」ことです。しかし、主イエスがキリストとして、しかも真の人の子として地上に降りて来て下さり、私たちの罪の償いのための十字架の死と三日目の復活とを通して、信じる者に罪の赦しと永遠の生命を約束してくださいました。 私共をこの光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を広く伝えねばなりません。そこに祈りを合わせ、そこで一つになる歩みを重ね、宗教改革六百年への歩みを踏み出したいと祈り、願います。「神の国の皇女、皇子の皆さま」、今この呼び名の実質化が問われています。
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