献身の勧め、と言うからには、一つには神学校への進学を、希望をもって勧める言葉から始める方が良いのだろうが、今はあえて別の角度から始めてみる。
神学校とか神学生という言葉で思い出すのは、ヘッセの『車輪の下』である。そこには神学校と神学生を中心とした、鬱々とした人間模様が描かれている。中学生のころに読んだときには、暗いという印象しかなかった。もし神学校の生活が『車輪の下』のとおりであるならば、献身は決して勧められるものではなくなるだろう。
ただ、神学校の生活は、ヘッセが 言うほど鬱々としたものばかりで はない。ヘッセ自身も神学校での学 びの面白さを描いている。しかし一 方で、「献身」には常に「自己犠牲」 が伴っているから、人は献身をし、
神学校に進むことについて躊躇す ることもあるのだろう。献身の勧 めは、事実、自己犠牲への勧めで もあるのだから。
ところで、ナチスのドイツ支配時代のカトリック教会を背景とした 『神の棘』という小説があるのだが、その中で、神学校の入学に躊躇する主人公に、このような言葉が投げかけられる。「命だけ救っても、魂を救えなければ、本当に人を救ったとは言えぬ。この受難の時代に司祭の道を選ぶことは、困難を極めよう。だが人々は、こんな時代だからこそ、切実に赦しと救いを必要とする。彼らは、神の使徒である君に、魂の救済を求めるだろう。そして君は応えねばならない」(『神の棘U』須賀しのぶ著 新潮文庫)。
献身者には苦しみが伴う。だからヘッセも『車輪の下』にそのことを描き、『神の棘』でもその葛藤が描かれる。しかし献身者には、魂の救済を求める人々にそれを提供できる言葉が与えられる。もっと言えば、誰よりも先に自分自身の魂が救い出される言葉に、献身者は出会うことができる。献身によって自己犠牲を受け取った者は、誰よりも自己犠牲のわざを行ってくださったイエス・キリストの救いに慰められる。だからこそ、献身することは喜びだ、と伝えることができる。
とは言え、「献身しませんか」「神学校に行きませんか」という呼びかけは、「召命」の問題でもあるから気楽に口にできる言葉ではないことも事実である。ヘッセが描写するように、「経験によると、神学校生徒の各級から、ひとりあるいは数人の仲間が四年間の修道院時代にいなくなるのが常である」(『車輪の下』ヘルマン・ヘッセ著 高橋健二訳 新潮文庫)ことも少なからず経験する。そのたびに、献身とは何か、召命とは何か、と立ち止まって考えさせられる。
過日、教会の方から問われた。「先生、牧師をしてて楽しい?」と。「楽しい半分、辛い半分です」と答えた。事実、受洗者が与えられることは嬉しいし、楽しい。しかし、説教の準備の辛さに逃げ出したくなることはしばしばである。
献身の勧めは、薔薇色の未来だけを見せることではない。むしろ、薄暗く、時として暗雲がたちこめ、 息苦しくなる事実も示さなければならない。けれども、その辛酸や労苦を越えて献身することには喜びがある。なぜなら、誤解を恐れずに言えば、主の一番傍にいられるからである。
だから、心の片隅に、ほんのわずかでも「主にお仕えしたい」という思いを抱えているなら、献身し、神学校に進んでいただきたいと思う。その道が御心に適っているのかそうでないかは、あなたがその道を進む中で示されることだろう。そしてあなたが献身者として仕えることになるなら、あなたは魂を救う喜びの務めを得ることになる。それは、間違いなく、あなたが想像し、期待していること以上の喜びになるだろう。労苦が無くなるわけでない。しかし、あなたがその道を祈って歩み出すことを願っている。誰よりも主があなたを待っている。
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