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この主張の前提として、まず教会はキリストの体であるという最も基本的な信仰に立ちたい。教会がキリストの体という時、そこは昇天されたキリストの体の一部であり、そのよみがえりの命を体現する場所である。それゆえ地上の教会は神のご支配を顕在化し、キリストの体としての機能を果たしていく時に、初めて健全であると言うことができる。そして全国連合長老会の規約上、この健全さを各個教会、地域長老会のみならず全体教会(ここでは我々の所属する日本基督教団)にまでその責任の幅を広げていくこと、そこに我々の地域連合長老会の担う役割があると考える。
筆者は、今期の九州教区総会において教区常置委員に選出された。九州連合長老会が発足して間もなく二〇年になるが、我々の中から教区常置委員を送り出すのは初めてのことである。同志の教会からの祈りと期待を痛感すると共にこれまで経験したことのない次元のプレッシャーを感じている。特に我々と立場を異にする教会が圧倒的多数の九州教区にあって自分に一体何ができるのかを自問自答する日々である。
教区総会の後、九州連合長老会の会議が行われたが、その中である教師が筆者の常置委員選出を受けて「ようやく我々の声がこの教区に届き始めたのではないか」と前向きな評価をされた。その評価は素直に受け止めることができたが、一方で二〇年もかかったのかという複雑な思いも抱いた。我々の神学的な発言や教会形成の理念は決して間違っていない。しかしなぜその声がなかなか届かないのだろうか。
主張なので、自己省察も含めて少し思い切って書くが、時々我々はあえて孤高の存在になろうとしているのではないかと感じることがある。もちろん地区・教区・教団の中枢に入って我々の仲間たちが健全な教会形成のために労していることは確かである。筆者もまたその一端を担わせていただいている。しかしそこでの姿勢はどうであったか。もしそこで自己正当化と他者批判に明け暮れていたとすればせっかくの正論も相手に響かず虚しく地に落ちてしまうだけなのではないか。高い理念だけを掲げてついてくる者だけを仲間とするという方式は果たして有効と言えるのだろうか。もし我々がこの現状を良しとし、自己完結していくならば、それは隠れた各個教会主義であり、全体教会に資するものには決してならないと思う。
先にキリストの体ということを述べたが、周知の通り人間の発育には個人差がある。皆が同じように、同じスピードで成長するわけではない。教会もまたその発達の段階は様々である。置かれた環境、地域性においても当然違いは生じてくる。もちろん我々が持つ教会形成の理念、筋道は一つであり、そこを目指していくことに変わりはないが、同時にそれぞれの発育の過程を尊重する謙虚さを兼ね備える必要があるのではないだろうか。
地域長老会形成において重要な課題は教育である。牧師も長老も教会員も主の御前に皆育てられなければならない。それはただ正論だけを掲げて、画一的にそこに適応できるように育てるのではなく、個々の発育の段階に応じてキリストの体として主の御心を現すために考え行動することができるように育てるのである。「わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません」(ロマ一五・一)。連合長老会は自己満足の集団になってはいけない。常に全体を見渡しつつ、むしろ弱いところを下支えするところとなる必要がある。その姿勢を持つ時に我々の声はもっと相手に届くものとなるのではないか。我々の遣わされた場所にキリストの体である教会が少しずつでも現れてくれば、我々が各地域で祈り、奮闘する意味も必ず見えてくるに違いない。
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