▼当たり前を捨てる
教会員教育について書いてくださいと頼まれました。まず初めに、恥ずかしながら私自身の牧会での失敗をお話しすることをお許しください。私は今の清瀬信愛教会に赴任するまで、いくつかの教会を牧会してきました。そこで教会員の方々ともに信仰の学びをする機会が多くありました。その中で信仰のことや教会のこと、礼拝のことなどについて話しをしていると「それは初めて聞きました」、「今まで聞いた事がない」という言葉を耳にしました。その時、口には出しませんでしたが「なぜ、こんな初歩的なことを知らないのだろう?」、「これは信仰者にとって常識のことではないか」と思ってしまったのです。つまり、知っていて当たり前という思いを持ってしまっていたのです。でも、こういう思いを持ってしまうことは牧師だけではないと思うのです。長老や信徒にもあり得ることではないかと思うのです。
当たり前ということは、時として私たちを傲慢にしてしまう言葉の一つではないでしょうか。その当たり前という考えを、み言葉を語り続ける中で打ち砕かれていきました。み言葉は聖書テキストがあり、そこからのメッセージを語り伝えていきます。しかし極端な言い方ですが、伝えるべきことはただ一つなのです。キリストの罪の赦し、救い、永遠の希望です。確かにこれは当たり前のことですが、しかし、当たり前のように見えて、実は当たり前ではないのです。キリストを通して示された神の恵みは当たり前で片付けることはできないのです。それは命に関わることだからです。私たちは神から大切な命を預かり生かされています。けれどもその恵みを忘れる者なのです。それでも神は変わることなく恵みを降り注いでくださいます。ゆえに、神の恵みは当たり前ではなく常に関わりの中で迫ってくるのです。
教会員の教育もまた、当たり前の出来事でなく、私たちは神の恵みを忘れてしまう者なので、常に学びつつ成長していかなければならないのです。信仰の学びに終わりはないのです。たとえ知っていることがあったとしても、学ぶことを通して神は新たな発見をさせてくださるのです。その意味で、訓練とは「当たり前からの打破」ということなのかも知れません。
▼何を学ぶのか 教会員を教育・訓練においてやはりテキストは欠かすことはできません。私なりに経験した中で「良いな」と思うものを紹介します。求道者のみならず教会員も分かりやすく学べるものは全国連合長老会から出版されている「伝道パンフレット」、「キリスト教入門パンフレット」のシリーズです。これは小さなパンフレットですが、信仰を学ぶことや、信仰者もキリスト教を確認するのに有益なものだと言えます。ただ、現在これらのシリーズは絶版になっているものあります。できれば再版されると良いと考えています。また、もう一つは『子どもと共に学ぶ 新・明解カテキズム』(全国連合長老会日曜学校委員会編)もおすすめです。これは日曜学校の教案誌に定本として用いられていますが、教会の各集会でも用いられると良いのではないでしょうか。
長老たちの学びにおいては小堀康彦牧師が執筆された『長老の職務』(北陸連合長老会編)などが学びに最適ではないかと思います。
▼おわりに
教会員の教育は、ただすればよい、というものではありません。教える方も学ぶ方も、共に信仰の恵みを受け取る謙虚さをもっていなければならないと思います。そして共に学ぶことを通して常に新しい恵みの発見をすることができるのです。 |