1.高齢は人生の黄昏か
日本には四季がある。そこから人生を春夏秋冬になぞらえて、誕生の時、成長、開花、結実、落葉などと表現する。その際時々引用されるのが「夕べになっても光がある」(ゼカ一四・7)である。これに対して聖書の語る時の感覚は、日本人と全く違うことが指摘されている(小河信一著『聖書の時を生きる/ヘブライ人の時間感覚』教文館、一九九八年)。それによれば、ゼカリヤ書の語る夕暮れ時は、残照の表現ではなく、まことの光が射し込む自然の理では計ることのできない主の来臨の時である。そこにヘブライ人は自然を超えた光を待望してきた。その夕暮れから新約聖書のイエス・キリストの復活の朝へと繋がる、その繋がりが大切なのである。夕暮れは起点であり、人生の黄昏を迎えた人々の希望である。
2.復活の朝
ユダヤ人の生活感覚の中では、夕暮れや夜は神の救いの開始の時である。闇夜をついて神の支配が始まっている。出エジプトの救済の業は「主は夜もすがら激しい東風をもって海を押し返された」(出一四・21)ことによる。夜もすがらとは一晩中であり、神の御業は夜中になされた。エマオ途上の弟子たちへの復活の主の顕現も夕刻から夜にかけて行われた(ルカ二四・29)。
復活の朝は夕刻や夜との関連の中で理解されねばならない。「闇の中を歩くときも、光のないときも、主の御名に信頼する」(イザ五〇・10)。動き始めている神の救済の御業を知る者だけが、闇の中で信仰を失わず希望に生きることができる。キリストの復活の朝の出来事はその成就である。
3.わたしたちの終活
教会はいまこそ確信をもって、キリストの復活と昇天を語るべき時を迎えている。『ハイデルベルク信仰問答』問四九は「キリストの昇天は、わたしたちにどのような益をもたらしますか」と問い、その答えとして三つの益を挙げている。第一は弁護者としてのキリストが御父の前にいますこと、第二は頭であるキリストがこの方の一部であるわたしたちをご自分のもとに引き上げてくださる保証がここにあること、第三は上なるものを求めることである。いま第二の点のみに注目したい。その典拠聖句のひとつがエフェソ二章四―六節である。この聖句が三度も繰り返し強調していることは、復活の「キリストと共に」われわれを生かし、復活させ、王座に着かせる神の憐れみと恵みである。「わたしがいる所にあなたがたもいることになる」(ヨハ一四・3。参照一七・24)。主はわたしたちより先に既に甦らされ天におられる。その主がわたしたちを引き上げてくださる。わたしたちは死後行先不明な場所に突き進んで行くのではない。より本質的なことは居場所の環境ではなく、そこにわたしたちを待っていてくださるキリストが復活し天に挙げられていることである。その主との出会いこそ人生の最終目標である。
パウロはその目標に向かって「賞を得るように走りなさい」(Tコリ九・24。フィリ三・14参照)、この世の朽ちる冠ではなく、義の栄冠(Uテモ四・8)を得よ、という。ここに人生の照準を合わせることがわたしたちの本当の終活ではないか。わたしたちの本国は天にある。そこに復活の主キリストがいて、わたしたちの卑しい体を御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださる(フィリ三・20―21)。何という光栄であろうか。 教会全体がこれらの御言葉の深みに習熟していく。そこに高齢者のみならず全ての者への伝道、すなわち説教と牧会の課題がある。地上にあるわたしたち牧師、長老、執事、教会員は一つとなって「主イエスよ、来りませ」との祈りの中で一回一回の終末的な礼拝を大事にしていこう。。
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