昨年度、三重連合長老会教師会は十回開催されました。そのうちの五回が連合長老会に加盟していない教会で行われました。不思議に思われるかもしれません。これは三重神学会(三重地区教師有志による神学書講読を中心とする集まり)を教師会直後に行うためです。多くの教師が神学会に集まりやすいようにという配慮から、会場は津市から松阪市近辺(三重県の真ん中あたり)の諸教会が順繰りで引き受けます。加盟教会でなくても連合長老会教師会の開催を快く受け入れてくださっているから可能なことです。因みに、三重地区教師会が年間六回開催されます。地区内教師たちの出席はほぼ皆勤です。頻繁に顔を合わせて相互訓練をし、相互牧会を行っていると言えるでしょう。教師間の信頼関係が忍耐強く築かれてきました。かくして地区教師会が機能している中で連合長老会教師会を行っているわけです。
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三重連合長老会が設立されて三一年余り。取り巻く状況は変化しました。教区・地区形成に積極的に協力するという姿勢を折りに触れて確認しながら歩んでいます。その上で改革派の信仰と長老制度の伝統に自覚的に立とうと志し、キリストの主権に服することの確かな喜びを御心にかなって証しする教会群であろうとしています。教師会は宣教長老としての職務を明確にし、上よりの支えを確かにいただくために祈り、学び続けています。三重連合長老会教師会の内容は、各教会報告、全国常置委員会報告、伝道協力に向けての諸活動計画打ち合わせ並びに振り返り、そして神学書講読による学びです。時間が限られているため、要領よく進める必要があります。それでも時には学びの時間が少なくなるときがあります。教会報告で質疑応答が長引いた結果、また牧会上の問題を議論した結果どうしてもそうなるということがしばしばです。その営みの積み重ねが強靭な神学を志向することとつながると受けとめるようにしています。
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『慰めの共同体・教会』(メラー著)を六月の教師会で読了しました。「慰め」という言葉を「ほっと大きく息をつくことができる」(同書19頁)、「安堵の息をする」ことと結びつけていたこと(同書21頁)が特に強く印象に残っています。教師たちが真実の「安堵」を呼吸していることがどんなに大切かを考えさせられました。「安堵の息」とは、それを呼吸するためにあちらこちらを探し回るようなものではなく、すでに教会に与えられている霊の賜物だと申します。そしてその賜物を見抜くのはキリストの眼差しであると教えられました。わたしたちは御言葉においてキリストの眼差しを受けるわけです。聖書の説き明かしへと召されている教師たちの交わりがキリストの臨在に溢れる場として約束されていることを信頼することが大切だと考えます。「全教会員が祭司職に生きる者として牧会の担い手になる」(同書21頁)という福音主義教会が取り戻した賜物は宣教長老たる教師たちの交わりがそうなっていることによって力強く生かされていくのではないでしょうか。
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キリストの眼差しを受ける。それはただならぬ「おそれ」を抱かせられる経験をするということでしょう。御言葉に「見抜かれる」。「審判」を味わうのです。しかしそれが「死」ではなく「命」の出来事として贈り与えられることによって人は新しく創造されます。土の塵に等しい者が新しく呼吸し始める。教師たちが聖書をむさぼり読むのはその驚くべき喜びに度肝を抜かれたからです。真実の「安息」をすでに「持っている」。この聖霊の賜物をますます熱烈に慕い求めて集う教師会でありたいと思います。このたび、『祈りについて―神との交わり』(カルヴァン著・ヘッセリンク編)を学び始めました。 |