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「主張」

※機関誌「宣教」(2020年11月号)「主張」欄より


 献身の勧め


 献身の勧めを書いてほしい、との依頼を受けた時にまず浮かんだ事は、戸惑いであった。なぜなら自分の事を思い返した時、献身はもともと勧められて出来るようなものではなかったからだ。それは人に有無を言わせぬほどの、神の選びに決定権がある。だとしたら献身は、いつでもこの私でいいのだろうかとの葛藤に繰り返し立ち帰っていく事を含んでいるのではないだろうか。
 依頼を受けてから改めて考えた事があるのだが、献身といえば、普通神の召命を信じ神学校に学び伝道者となる者の事を念頭に置くわけで、牧師になる事を考えている人に勧めるものだ。けれども、改革教会あるいは長老教会は牧師も制度上、長老の一人なのだから長老への献身という事も合わせて考えることも出来るだろう。
 それにしても、神の選びゆえの献身が戸惑いから始まるのは聖書的であろうか。勧めるからには、何か喜びとか輝きのようなものが必要ではないのか。そこで聖書に聴く事がやはり大切な務めであろう。献身と召命が一つの事であるのは、預言者エレミヤが典型的である。だがエレミヤは、神の召しに戸惑っている。若くして預言者に召され、生まれる前から知られ聖別されたと言う、その任に耐え得ないと抗議しても、神様はエレミヤを捉えて離さないのだ。だが私はエレミヤが真に預言者として召され、献身していく様子は、第二〇章のエレミヤの告白の言葉にあると思っている。その七節から特に九節である。「主の言葉は、わたしの心の中、骨の中に閉じ込められて、火のように燃え上がります。押さえつけておこうとしてわたしは疲れ果てました。わたしの負けです」。
 ここに出てくる告白は、戸惑いを超えて、神と勝負をして負けたというほど、自分の築きあげた物が崩されてしまう経験である。何故神は、逃れようとする者をも捉えようとなさるのであろう。
 神の方から御手を伸ばして下さらない限り、罪人の救いはない事を身をもって証しする人を、必要とされたのではないか。そう考えると旧約も更に新約も恵みの証しに満ちている。「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来て下さった』という言葉は、確実で、そのまま受け入れるに足るもの」というテモテヘの手紙一の言葉は、決定的である。してみると献身者の決意よりもキリスト・イエスの聖なる御意志つまり罪人を救うために自ら献身された事実が先にあるのではないだろうか。伝道者のみならず長老もまた、いやキリスト者ならば皆十字架の主の献身によって生かされるのだ。ここに真の喜びに生きる群れ(教会)が世に生まれる。
 御言葉を聴く喜びである。献身の恵みの事を考えていて、いつもその務めの重さのゆえに戸惑う事が先に来るのだが、忘れやすい事は、献身者こそが真っ先に御言葉に聴く事が出来るという事だ。それは礼拝という事であろう。長老の務めを学んだ時に献身者を生み出すための祈りをする事が、長老の第一の務めだと聞いた事がある。優れた感覚である。その故に献身には、生きた礼拝を献げる為の祈りが不可欠であろう。
 献身は喜びの故に為される。それは戸惑いがなくなるからではない。預言者エレミヤは何度も神の召命を受けた。挫折の度に、再び神の召しの声を聴いた。
 聖書の特徴は、神が再び語る事にあると、私は思っている。神は罪人と共にいる事を喜ばれるから献身者を求めておられるのではないだろうか。礼拝の開始が、神の招きの言葉である事が意味深い。聖霊の助けにより献身への招きに応える者は幸いである。
 献身者を支える御言葉は多いが特に詩編第一三九篇一〇節が慰め深いであろう。どこにいても、何があろうと、御手によって導いて下さる神が、十字架の主を見上げさせて下さる事が、真の喜びからの勧めである。

砂町教会 三原 誠






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