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「主張」

※機関誌「宣教」(2020年12月号)「主張」欄より


 献身の勧め


▼献身とは
 献身という言葉は身を献げると書きます。広辞苑では「一身を捧げ尽くすこと。自己の利益を顧みないで力を尽くすこと。自己犠牲」と記されています。確かにこの身を捧げ尽くすことではあります。けれども広辞苑の「捧げる」は「高く上げる」「もっているものをすべて差し出す」と言う意味があります。確かに「もっているものをすべて差し出す」ということを大切な意味でありますが、献身の「献」はもう少し強い意味があると言えるのです。「献」には「たてまつる」とか「差し上げる」と言う意味があります。ただ身を捧げるとかもっているものを差し上げる以上のもの。この身も心もすべてを差し上げ、そして差し上げたお方のために生きることであります。そして「献身」この身もすべて献げ尽くして生きると言うことの前提に神の招きがあることを忘れてはならないのです。主イエスが弟子たちを召し出されたとき「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(マタイ一・17)と召し出されていす。ここ に献身の様子が描かれています。漁師たちが主イエスに対して弟子にしてくださいとは言ってはいないのです。主イエスが漁師たちに声をおかけになられ、漁師たちはその声に聴き従ったのです。つまり私たちが従うという思いを自分の心の中に作り上げたのではなく、あくまでも主イエスの呼びかけが私たちの心の中に響き、従うという思いが主イエスを通して授けられるのです。ですから、献身は私たちが主となって起こる出来事ではなく、主イエスの御声によって与えられるのです。献身の中心はあくまでも自分ではなく神なのです。

▼私自身は?
 少しだけ私のことに触れます。私は恥ずかしながら「献身」と言う言葉を東神大を受験するまで知りませんでした。中高とミッションスクールに通っておりました。聖書の時間が好きで漠然と将来はミッションスクールで聖書を教える先生にでもなれればいいのかもと考えていました。高校三年の時、学校の宗教主任に東神大を受験したいと相談したら、東神大は召命感や献身する気持ちがないとだめだと言われ、初めて召命感、献身という言葉を耳にしたのです。そしてよく分からずに受験し何とか東神大に入れていただきました。東神大に入学してから夏期伝道に派遣されて行く中で教務教師も確かに大切だけれども、牧師として教会を牧会することの喜びも知り、大学の四年生のころから牧師になりたいと言う思いが強くなったのです。そして今があります。私は今から思えば献身という言葉の意味もよく分からず、初めは学校の聖書科の先生になりたいと言う思いを自分の中で考えていましたが、実は神がそのような思いを授けて下さったこと、そして東神大に入学し、今度は教務教師もいいけれども牧師として立つことの喜びも神が授けてくださったとのだと思いました。その授けてくださった神にこの身をすべて献げて生きることが献身であり喜びだと感じたのです。

▼繰り返される献身
 私は、献身は一度きりの出来事ではないと思います。その時々に起こるのではないかと考えます。牧師になりたいと思って神学校に入る時に献身があり、卒業し伝道者として立たされるときも献身が起こり、また教会を移る時も神の導きに応答する献身が起こるのです。また教務教師と立たされることも献身であります。
 私たちは様々な時に常に神との関係を思い起こしこの身を神に献げ、神と共に歩むことを献身という言葉を通して確認しているのです。

清瀬信愛教会 竹前 治






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