「コロナ禍」にあって「地域」と呼ばれていることの意味を改めて考えさせられている。一言で「地域」と表現してもその広さの定義は異なる。西部連合長老会の場合には京都、大阪、兵庫、岡山に渡り、しかも日本海側まで含まれている。コロナの感染拡大が起こるまでは言葉上で「地域」は理解していたつもりであったが、コロナ禍にあって移動がままならない状況が生じたとき、「地域」の意義を問われることとなった。
とりわけ、コロナ対策に関して言えば、礼拝の持ち方、聖餐の持ち方なども含めて、各教会の対応の違いがあるのは当然にしても、「地域」と言いながら、複数の府県にまたがる地域ゆえの違いも含まれる。
コロナ禍の中で昨年度はオンラインで教師会を開催し、今年度もそれが継続されている。画面上で顔を見て安否の確認はできているが、「会って」いるわけではない。私のように教師会ごとに移動に長時間を費やしていた立場から言えば、パソコンを開いてアプリを起動するだけで教師会が出来ることは、時間的にも体力的にもありがたいことではあるが、果たしてこの状態が「地域」という定義にふさわしいかどうかとも考えさせられる。事実、その気になれば、西部の教師会に北海道や沖縄、大げさに言えば海外からでも参加できるし、それが可能となるとき、その交わりがそのまま「地域」となるか、と問われるなら、素直にすべてを同意できない気持ちが私個人の中には少なからずある。
とは言え、オンラインという形であっても教師会を開催できるようになったことは、教師の孤立化を防ぐ意味においては「地域」の役割は果たせているように思われる。また移動がないことによる時間の削減の効果としては、人事委員会を必要があったときにすぐに開催出来たり、加盟教会の長老会との懇談会も、ある意味気兼ねなく行えるようになったりしたことは、コロナ禍ゆえの対応がもたらした利点であったかもしれない。
また西部では会議は年に一回であり、通常は常置委員会で事を進めているが、平日の夜に開催される常置委員会に参加する長老の負担は大きく、仕事帰りに集まり、会議が終わってから夜遅くに自宅に帰宅する、という労を負っていただいていた。しかしコロナ禍にあって常置委員会もオンライン化したことによって、日曜日の午後に開催できるようになった。結果として具体的に長老常置委員の諸負担が減じたし、そのために(夕礼拝までという時間的な制約も生じはしたが、終電を逃してはいけないという焦りが無くなり)比較的落ち着いて議論が出来るようになったことも常置委員会のオンライン化がもたらした利点であった。これまでの「地域」が抱えていた課題がこのような形で解消されたのもコロナ禍という強制のもとではあるが、広い地域を抱える西部という「地域連合長老会」にとって可能性が示された点でもある。
加えて言えば、長老の常置委員も平日の夜に集まれる可能性のある長老だけが選ばれる対象になる傾向にあったが、オンライン化によってその制約もまた減じたことになる。その意味では常置委員の選挙も「地域」の縛りが無くなり、「地域」を過剰に意識しながら選挙する必要性も減じた。これも「コロナ禍」への対応がもたらした「地域連合長老会」のこれまでのあり方からの異なる転換が示された視点だと言えよう。
このように複数の他府県にまたがる「地域」を意識するゆえに「地域」に縛られていた在り方が、コロナ禍によって「地域」のハードルが低くされた側面をふまえ、本来の意味で「地域連合長老会」とするためにこれから何が出来るのか、その可能性を探りつつ、西部としての教会の歩みを深めてゆきたいと願っている。
蕃山町教会 服部 修
|