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「主張」

※機関誌「宣教」(2021年11月号)「主張」欄より


 献身の勧め


 大学四年生の夏休み前の教会学校教師会の席で、ひとりの女性信徒からこう言われました。「私は井ノ川君が神学校へ行くことを願っている。そのために毎日、祈っているのよ」。思いがけない言葉に驚き、畏れに満たされました。教師会後、牧師から牧師室に来るよう言われました。「私も君が神学校に行くことを願い、祈っている」。「夏休み中、祈って主の御心を尋ね求めさせてください」。夏休み中毎日、何度も主の御心を尋ね求めました。しかし、祈り求めれば求める程、「私は神の御言葉を語る伝道者にはふさわしい存在ではない。そのような重い任に耐え得るような存在ではない」との思いが増すばかりでした。夏休みの最後の日の夜、大学の寮から歩いて三〇分程離れた教会へ向かいました。夜道を歩きながら心の中は揺れ動いていました。確かな献身の思いは与えられていなかったのです。牧師と会い、話をしている中で「神学校へ行きます」という言葉が口から生まれました。生まれた、与えられたとしか言いようがありません。牧師は聖なる神の御業に触れたような驚きの顔をされ、私のために祈ってくださいました。そして、この本を読みなさい、と手渡されたのは木下順二の『風浪』でした。その牧師とは、東京神学大学の専任講師となられて二年目の近藤勝彦牧師でした。あの日の夜、私の人生は自分でも思っても見ない方向へ動き始めました。
 なぜ、牧師は神学書ではなく、『風浪』を手渡されたのか。本を読みながら問い続けていました。『風浪』は、熊本洋学校に赴任した退役軍人ジェーンズ教師の許、三五名の青年が主キリストに従う志を立てた花岡山での出来事を舞台とした戯曲です。しかし、全ての青年が主キリストへの志を立てたのではなく、ジェーンズ教師の許を離れ、新政府に反旗を翻し、神風連(敬神党)の乱に加わった者、西南戦争の西郷軍に加わった者もいました。熊本中学時代に洗礼を受けた木下順二が、熊本の連隊に入営する前に死を覚悟して、自らの信仰のルーツである熊本バンドの信仰を遺作として綴った戯曲です。歴史が大きく動こうとする時、歴史を真に進め得るものとは何か、歴史形成に青年たちはいかなる志をもって参与して行くのか。人間の目から見れば、真に非合理な仕方でしか歴史に参与せざるを得ないのではないか。この作品の主題でもあります。
  神学校へ行くことを決意した頃、「東京神学大学学報」が送られて来ました。その中に、神学校を卒業された若き伝道者と在校生の「献身の勧め」がありました。若き伝道者は預言者アモスの言葉を冒頭に掲げ、このように語りかけていました。「主なる神は言われる、『見よ、わたしがききんをこの国に送る日が来る、それはパンのききんではない、水にかわくのでもない、主の言葉を聞くことのききんである』」(口語訳、八・一一)。今日の世界と日本が直面している最大の危機は、主の御言葉の飢饉です。不条理な歴史を生きるひとりの飢え渇く魂に向かって、存在をもって語りかける主の御言葉を必要としています。そのために、主はあなたを伝道者として召してくださるのです。
  イザヤがエルサレム神殿で礼拝中、預言者として主から召し出された時、「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」と積極的な応答をしました。しかし、イザヤは聖なる神のご臨在に触れた時、こう叫びました、「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者」、「ああ、どうしよう、わたしはもう駄目だ」(関根正雄訳)。汚れた唇の者で、滅ぶべき者であったイザヤを、主は敢えて預言者として召し出されたのです。それ故、イザヤの応答の言葉、「わたしがここにいます」の「ここ」とは、滅ぶべき存在を尚、生かしてくださる主の憐れみの中でのみ、立つことができるということです。
  献身の確かさは、私たちの内にはありません。教会の祈りと、主キリストに捕えられた、そこにこそ、献身の確かさがあるのです。

金沢教会 井ノ川 勝






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