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「主張」

※機関誌「宣教」(2021年12月号)「主張」欄より


 クリスマスの歌心、再び


 ある日曜日の朝。受付のところで教会員のご婦人が携帯電話で話していた。相手はご主人。お迎え時間の打ち合わせだ。彼女がふいに振り返ってこう言った。「先生、今日の礼拝何時ごろに終わります?」とっさに答えた。「今日は礼拝後も何もないから、一一時半には終わりますよ。」
 答えた直後、私は愕然とした!神様から迫られた気がした。「牧師よ、今日の礼拝終了時刻をなぜお前が知っているのだ」。とっさの言葉にこそ本音が出ると聞く。牧師はその日、礼拝式順どおり司式し、原稿通りに説教し、予定通り礼拝が終わると思っていたのだ。
 これまでのようには礼拝に集えなくなった今、単刀直入に問いたい。私たちは本当に主の日の礼拝に期待していただろうか。礼拝前の御堂には「今日、私たちは神様の恵み受け取るのだ!」との飢え渇きと期待感があっただろうか。それとも、同じ演目を長年こなしてきたが故、居眠りしながらでも台本通りこなせる劇団の、緩みきった楽屋のような有様だったろうか。
 礼拝に期待していないというのは、もはや神を相手にしていない、神に期待していないということだ。礼拝の相手を見失えば当然、祈りも讃美も死んでしまう。ある人は言う。「教会が神を見失うほどに礼拝が儀式ばって、衣装が大げさになって、礼拝堂に装飾品が増えて、やたらと『交わり』目的のイベントが増える」。
 ふと、「聖所で香をたく」当番にあたった老祭司ザカリヤのことを思い出す。「非の打ちどころのない」老練の祭司に失礼を承知であえて自分を重ねてみる。もしかしたら彼はあのとき聖所で、自分の職務を滞りなく無事に終えようとするあまり、香を捧げる「相手」である神を忘れてはいなかったであろうか?
 そして事件は起こった。あの日、聖所での「整った礼拝」が妨げられたのである。他でもない神ご自身が礼拝の「邪魔」をし、その流れを滞らせ、待ったをかけたのだ。「祭司よ、ちょっとこっちを見なさい!」という御声が聞こえてくる気がする。「こっちを見なさい!」これは私たちへの言葉でもあるのではないか。
 この後ザカリアは口がきけなくされた。誰よりも正しく非の打ちどころがなかった祭司が語ることと歌うことを禁じられ、妻と共に家に留め置かれたのだ。これは一つの裁きであり、悔い改めへの招きである。言い方を変えれば、神からの目的のある沈黙命令である。「お家時間」なんていう話ではない。もう一度神様と向き合うべき時である。そして正直に自分の信仰を吟味し、聖書の信仰者たちとあまりにもかけ離れた自分たちの姿に打ち砕かれるべきときである。今祈るべきは「以前のような礼拝を、再び」ではない。「主が求めておられる礼拝を、新しく」である。
 時が満ちたとき、ザカリヤは「口が開き、舌がほどけ、神を讃美し始めた」。非の打ちどころのない真面目な祭司が、水風船がはじけるように神を讃美し始めた。たぶん以前の彼とは違っていた。民衆も驚いた。「あの真面目なザカリヤが!?」
 ZoomにYouTube、礼拝のライブ配信。コロナ禍に「抗う」工夫が大流行りだ。無論どれも大切なこと。けれども主が今教会に求めておられることは、この状態に「抗う」こと以上に、むしろこの強いられた沈黙の中に頭まで漬かり、自らを見つめ直し、打ち砕かれ、悔い改め、礼拝への、讃美への飢え渇きをかき立てられ、元通りになること以上のことを主に期待することではないだろうか。
 真面目で正しい・・・・・・・あなたの口が開き、舌がほどけ、新しい歌がほとばしり出るとき、御子イエスの降誕を讃える馴染の讃美歌が、まったく異なる響きを帯びて礼拝堂を満たすだろう。

山田教会  山口元気






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