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「主張」

※機関誌「宣教」(2022年1月号)「主張」欄より


 「コロナ禍」によって示されたこと


 いわゆる「コロナ禍」が始まって二年になろうとしている。この原稿を書いている二一年一〇月末、新規感染者数はかなり減り、社会における様々な活動が再開されつつある。しかし「第六波」の到来が心配されており、油断はできない。この「宣教」が発行される頃にはどうなっているだろうか。 「コロナ禍」によって失われたものは勿論多いが、与えられ、示された恵みもある。そこに目を向けていきたい。
 ウイルスの影響は地域によって、教会の置かれた環境によって、そして人数や会堂の大きさなどによって大きく異なっている。だから各個教会長老会がそれぞれの状況に即した判断を求められている。この試練の中で各教会の長老会が、治会と牧会において訓練され、成長を与えられたのではないだろうか。また各地域連合長老会も、各個教会を支え、助ける働きにおける成長の機会を与えられたのではないだろうか。
 「コロナ禍」によって何と言っても、主の日に共に集って礼拝を守ることができることの幸い、喜びがはっきりと実感された。聖餐にあずかること、讃美歌を歌うことがどれほど大きな恵みであるか、それを失った教会ほど深く感じているだろう。礼拝を「守る」ことの意味と恵みを実感させられたことは貴重な体験だった。
 また共に礼拝に集うことを中心とする教会における交わりの恵みも、それを失ったことで却ってはっきりと感じられている。「キリストの体」である教会の部分とされ、共にキリストに繋がっている兄弟姉妹の交わりに生きているという信仰を、今私たちは再確認させられているのである。「コロナ禍」を単なる「禍」ではなく、互いに祈り合うことによってキリストの体である教会が築かれていくことを体験する機会としていきたい。
 「集まる」ことが妨げられている中で、み言葉を一人ひとりに届け、共にみ言葉によって養われていくための様々な工夫がなされるようになった。教会からの動画や音声の配信、文書の発送などの体制が一気に整備されたことは恵みであった。いろいろな事情で礼拝や諸集会に集うことができない人は元々いたのだから、その人々への配慮が大きく前進したと言える。そのことを喜びつつ、「礼拝は何によって成り立つのか」を考えさせられてもいる。礼拝の動画を見たり、音声を聞くことで礼拝が成り立ち、そこに教会が築かれていると言えるだろうか。これは今後神学的に検討されなければならない問題であるが、私自身は、教会や礼拝は物理的に「集まる」ことにおいてこそ成り立つ、と考えている。聖餐も、集まって共にあずかることにこそ意味がある。そのことを中心としつつ、「コロナ禍」の中で得られた様々な手段を補助的なものとして生かしていくことが必要なのではないだろうか。
 「コロナ禍」は教会の財政にも影響を及ぼしている。このことは、私たちが教会という「霊的な家」を共に造り上げる「生きた石」(一ペトロ二・5)となって生きているか、という問題でもある。その信仰を養われていく機会が与えられているのだと受け止めたい。
 「コロナ禍」の中で私たちは、自分たちの無力さを実感しているし、人間の努力には限界があること、私たちの力ではどうにもならない現実があることを思い知らされている。しかし同時に、主なる神がこの現実の中でも生きて働き、救いのみ業を行って下さっていることをも示されているのではないだろうか。私たちの生も死も、主なる神のみ手の中にある。独り子の十字架の死と復活による救いを与えて下さり、復活と永遠の命を約束して下さった父なる神以外に、私たちが信頼し、依り頼むことができる方はいない。「コロナ禍」によって私たちはこのことを再確認した。そこに、この試練によって与えられた最大の恵みがある。

横浜指路教会牧師 藤掛順一






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