< HOME

規約と信仰告白
「主張」
全国連合長老会ニュース
加盟教会一覧
出版書籍


「主張」

※機関誌「宣教」(2022年3月号)「主張」欄より


 献金の信仰


 和歌山教会の献金のかごは何十年と使用されている。ずいぶん前の礼拝堂の写真にも写り込んでいるので一〇年、二〇年という単位ではない。今では持ち手の柄がなくなってしまっているものもある。しかしこのかごが多くの献金を集めてきた教会の歴史の隠れた証言者である。年季の入ったかごを眺めていて思う。このかごに献げられてきたのは献金だけではない。多くの祈りが共にささげられてきた。その祈りを集めてきたがゆえに、くたびれた献金のかごも美しく見える。さながらイエスさまの寝かされた飼い葉桶のように。
 私たちの信仰は献げる喜びと共にある。イエスさまとは全く関係のなかったはずの東の国の博士たち。彼らは幼子イエスさまの御前に伏し拝み宝の箱を開けた。黄金、乳香、没薬。それらは非常に高価なものだった。あるいは博士たちの身分を保障するものであったとも言われる。宝をイエスさまに献げる者とされた喜びに満たされて彼らは自分たちの国へ戻っていった。自分で自分の生活を確保するのではない。自分の保証となったはずのものをもイエスさまに献げるものとなる。それほどのイエスさまへの信頼、イエスさまに委ねて生きる幸いを携えて彼らの新しい歩みは始まった。この幼子がやがてご自分の命を献げてくださる方だとは博士たちは未だ知らなかった。しかしイエスさまのために自分たちは生きてきたし、これからもイエスさまのために生きていく生涯として彼らは歩んだのに違いない。
 献げる信仰は私たちについて知らせる。私たちは本当にこの身を献げるところを求めていたのだと。救いとはイエスさまのために、そして御国のためにこの身を用いていただけることと一つである。イエスさまを知ることのあまりの素晴らしさに、自分のために生きることは二の次となる。御国の建設という比べるもののない尊い事業に参与できることを知ったのなら自分を惜しんでなどいられない。憐れみ深い神さまは私たちに本当に生きる所をお与えくださった。イエスさまのために。御国の到来のために。それが献げる信仰であり献げる喜びである。そのことを東の国の博士たちの姿に知る。網を捨ててイエスさまに従った漁師たちに知る。自分の一切を糞土と見なしたパウロに知る。そして私たちの知る多くの信仰の先達たちの生き方に教えられるのである。
 今、私たちを取り巻く状況でまことしやかに語られる献金の問題がある。集まることを妨げるコロナ禍によって献げられる献金は減少したこと。あるいはそれ以前から教会員の高齢化であるとか、世の中の就労状況の厳しさなどで献金減少の解説とそこに起因する教会の維持運営、伝道活動の困難が案じられている。けれども長老会が問題にすべきは、信徒の献げる喜びが取り上げられてしまうことである。イエスさまのために生きる慰めが、御国のために自分を献げる心が弱められてしまっていることである。それは祈る相手もぼやけてしまっている、祈りの衰えであったのかも知れない。
 こう振り返っても良いだろう。私たちの教会で祈られる祈り、礼拝であれ祈祷会であれ、そこで献金を献げることができるようにと祈られてきただろうか。宝の一部をお返ししますと祈りつつも、必要を満たしてくださいという祈りはどれほど深められてきただろうか。献金の問題と言いつつ、祈りのないところでは献金の心配などしていない。思い煩わせているのはお金の心配。マモンの神を喜ばせること。反キリストである。
 私たちは祈りを新たにされたい。自分たちの保身のためではなく、神と人とに仕えることができるように。悔い改め、真実にイエスさまのためにこの身を献げて生きる教会とされるように。福音を新しく聞かせてくださいと。

和歌山教会 清藤 淳






▲このページのトップへ



日本基督教団 全国連合長老会 All Rights Reserved.