各個教会長老会の務めについてならば、アメリカ改革派教会の、ロバート・ホワイト「長老の手引き」等、参考にすべき書が多い。この書は、モーセの燃え尽きない柴の出来事から始めるが、長老会の職務の根底にあるものへの考察を促す。使命とは自らの内にあるより、外より与えられるもので、教会の使命とも重なり合うだろうが、キリストに仕える姿勢が強調されるであろう。具体的に言えば強く迫るキリストの愛に応える事であり、神の秘められた計画を委ねられた管理者であることだ。
コロナ禍で特徴的だった事は、ローマ・カトリック教会が素早く教皇からの指示が伝えられて対応していたが、プロテスタント教会は会議を重ねていった事である。教会制度上の特徴が良く表れた事であり、教会観の違いも見えた。イエス・キリストが主である事を守りぬく事が教会の使命とも言えるが、司教団が礼拝を捧げる事が教会の存立であると考える場合と教職と信徒の会議を重んじた場合の違いが見えたのである。
宗教改革者達が司教の権威に変えて会議を重んじたのは、それだけ神の言葉が軽んじられないようにとの祈りがあったからである。
教会の使命は、キリストにある罪の赦しに招く事であり、御国を来たらしめたまえと祈り神の栄光の顕れを示す事であろう。そうだとすれば各個教会長老会の使命も聖餐の恵みをして再臨なさる主の来られる時に備える歩みを整える事になるだろう。聖餐こそ、主の行き届いた恵みに対する厳粛な招きだからである。福音伝道の熱意は、教会の希望が何であるかをわきまえて奉仕するところに与えられるものである。
教会の歴史の中で、教会訓練という事を重視したのは改革派であるが決して容易な事ではなかった事も事実である。
宗教改革に踏み切ったヨーロッパの都市の事情が複雑に絡んで、教会の事柄にも政治的機関が決定するという事が行われていたからである。その中で、バーゼルの宗教改革の指導者であったエコランパディウスは、教会訓練における聖餐の中心的位置を強調し聖餐を「相応しく受ける」事が鍵であるとしたけれどカルヴァンも深く影響を受けたと思われる。当時も、福音的な説教がなされていただろうがキリストの民に相応しい秩序として教会戒規を深く考えたのでそれゆえに教会の訓練に政治的機関が加わる事を警戒した。
歴史的状況が今日の状況と全く違うので、一概には言えないけれど、教会がキリストの体に与る為相応しく整えるという事ならば、長老会の使命として、必要不可欠な視点ではないかと思う。
コロナ禍で問われたのは、主日礼拝をどのように継続するか、あるいは生命を守るため集まる事を犠牲にするかという二者択一の感があったが、むしろ教会訓練のあり方が問い直されたように思う。
各個教会長老会の使命もキリストの愛によって罪から贖い出された民として相応しく生きる事に無関心ではいられないし贖われたからこそ、恵みに相応しく感謝の生活をする事を促すであろう。具体的に長老自身の内的成長なくして長老の使命は達成しえないという昔から先輩方が言っておられた事を繰り返すしかない。長老会の任務を果たすためにも、自分の知恵に頼る事を超えて、謙遜に神の御言葉に頼らざるを得ない。
どなたから聴いたのか定かではないがマルティン・ニーメラー牧師が、牧会の中心に良きサマリヤ人の譬えを置き、教会の本質からずれないようにと祈っていたと聞いた。人間に権力が集中すると、必ず腐敗するからであろう。
そもそも長老制度では各個教会を超えて地域長老会の交わりがあり、教会の形成のために祈り励むのだが、逆の言い方をすれば神のなさる伝道を妨げないように己を捨てる事が使命であろう。
砂町教会 三原 誠
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