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「主張」

※機関誌「宣教」(2023年1月号)「主張」欄より


 オンラインによる営みの意味と課題


  「キリスト者は個人で祈っているときにも共同体であることを止めているわけではない」。以前、加藤常昭先生から聞いた言葉である。
 コロナ禍にあって、各教会でも連合長老会の諸集会においてもオンライン化が進んでいる現実がある。感染拡大防止の観点から必要な手段であったと言えるし、オンライン化によって、停滞していた活動が制限付きでも再開され、動きが生じたことは利点でもあった。そして失われた交わりが、オンラインの導入によって回復できた、との言い回しが時折聞かれるようになったし、私自身もその表現をある意味肯定的に受け止めていたことも事実である。しかし改めてこの表現が本当に正確な表現なのだろうか、ということを思案していた際に、冒頭の加藤先生の言葉を思い出した。
 確かに感染拡大を防ぐために外出を控えたり外出が困難になったりしたことはダメージである。しかし本当にその状況が「交わりを喪失してしまった状況」と言うべきなのだろうか。独りで密室で祈っていても共同体である、とのキリスト者の本質に基づくなら、表現としての「交わりの喪失」は不正確なのではないかと思わされる。むしろコロナ禍は「交わりの喪失」ではなく「体の喪失」をもたらしたと表現するほうが正確なように私には思われる。
 オンラインによる営みの利点の一つは孤立化を防ぐ点にある。実際教会は聖書の時代から孤立化を防ぐために様々な手段を講じてきた。使徒たちは手紙を書き、背後にあって祈る民が存在することを伝えてきた。時代と共に交通手段が整備されて訪問が容易となり、さらに技術が発展して電話で安否を問うことが可能になった。そして今や映像で確認できるようになった。教会は、「個人で祈っているときにも共同体であることを止めているわけではない」という事実に基づいて、孤立化を防ぐために様々な手段を用いてきた歴史を持っている。
 映像で姿が確認できることは声だけの場合よりも利点に思えるが、一方で姿が見えているだけに体への意識が薄れることも事実である。遠距離恋愛はこの状況を「体の喪失」と表現した際のイメージしやすい例であろう。私が学生の時代は遠距離恋愛をしている人は公衆電話の上に硬貨を山積みにして声だけを頼りに相手に思いを馳せていた。今は簡単に顔を見ながら電話が出来る。それこそ海外からでも顔や景色を見せながら連絡できる。では、顔が見えているから会わなくても良いかといえば決してそのようなことはない。「見えていること」と「体があること」は全く別なのである。
 過日、教会の会報に、オンライン化の行きつく先はドケティズムもしくはグノーシス主義という内容の文章を書いた。教会は、体を造り、体をも救われた神を信じている。何よりも救い主が体をとり、体において死に、体をもってよみがえられたこと、そして今、聖餐において体を示してくださっていることを思い起こすなら、体の喪失はキリストの現臨に連なる恵みの喪失をもたらすものになる。だからコロナのゆえに多くの教会で聖餐が長期にわたって再開できなかったことが教会の痛みとなったのである。このように、オンラインで完結する交わりは、体を喪失した交わり、キリストとの一体性を見失った交わりとなり、結果としてその交わりは消滅する危険にさらされるのである。
 「体の喪失」と「交わりの喪失」を同義に扱ってはならない。オンラインの営みを受け入れる中で私たちが留意すべき課題は、「交わりの喪失」なのではなく「体の喪失」である。すなわち、孤立化を防ぐための手段としてのオンラインに支配されて、体まで喪失してしまうことがないようにオンラインを活用することが肝要だと考えられるのである。

蕃山町教会 服部修






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